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シューベルトの合唱曲について
      〜そして、「美しき水車小屋の娘」を指揮することについて

コーラスめっせ2015パンフレットより

【歌の人、シューベルト】
歌曲の作り手として知られるシューベルトですが、合唱曲も数多く残して います。ラテン語(もしくはドイツ語の典礼文)による宗教曲に関しては、 しばしば自由にテキストに手を加えたり、順番を入れ替えて作曲している ことで議論がなされていますが、いずれも格式や厳粛性とは異なる温かさ のようなものに シューベルトの特徴が出ていると思います。しかし、何よ り、シューベルトの合唱曲の真骨頂は歌曲の場合と同じくゲーテやシラー のドイツ語(母語) に付けられた芸術的(抒情的)作品の数々ではないで しょうか?混声合唱作品も存在しますが、男声合唱作品に傑作が多いのは この時期の 特徴でしょうか。ドイツを中心にしたヨーロッパでのリーダー ターフェル運動が興こるのはその直後の時代だと思いますので、男声曲の 名曲の多さ は、そこで(死後)シューベルトの曲が多数反復されて歌い継 がれてきたことの証なのでしょう。ときに感傷的部分もありますが、親しみ 易く穏かさの中にも深い味わいを持った作品が多いです。作曲された時代を 考えると、音楽の中身の方向性はロマン派的ですが、様式は古典派的な立場 を備えながら、情に溺れすぎない品性を保っているのが特徴だと言えるでし ょうか。酒や恋、自然のようなテーマについての曲がたくさんあります。 いずれも過剰になることなく、率直な心情や細やかな表情で「歌う」ことが 肝要でしょう。
しかしながら、一般的には シューベルトの合唱作品は、いざ演奏するとなる と、かなり難易度が高く、最近はあまり聞かれなくなってきているようにも 思います。理由の一つはその名曲の大半が、ドイツ語の繊細な表情に依拠し ており、「言葉が多い」ことにもあるように思います。
同じドイツ語の曲でも、例えばブラームスはコンクールのようなシビアな場 面においてはまだよく歌われるのです。ブラームスには多くの分析に耐え得 る構築性があったり、人生の哀歓を大きなジェスチャーで熱く歌い、強い意 志とそれを裏付ける技法が表現を支えていると思えます。シューベルトの場 合は、 シューベルティアードに象徴されるように、リートや重唱という表現 形式の延長線上に合唱のフォルム や発表形態が想定されているようにも思え、 身近な情感に近いものが表現される必要があるように思います。極度の緊張 と弛緩ではなく、やりすぎない節度や優美さ、分析や評論を寄せ付けないモ ーツァルト的な天衣無縫さがあるのかもしれません。「うた」そのものという のでしょうか。それが美しさであり、大勢で歌うときの難しさでもあると言 えるのでしょう。

【「美しき水車小屋の娘」を指揮する】
さて、今回100人を越える公募合唱団でこの作品を指揮させてもらえること になりました。恐らくこの曲を「指揮した」人はそんなにいないのでしょうか ら、何だかわくわくだけでなく、そわそわしてしまいます。
楽曲としての完成は全て千原先生のお力ではありますが、指揮者としてこの曲 と向きあった時に、ふと私の師匠のことを思い出したりもしました。マーラー、 ブラームス、チャイコフスキー、リヒャルトシュトラウスまで、次々と歌曲の 名曲を男声合唱に編曲された福永陽一郎先生です。もちろん、それは男声合唱 の楽譜の少なかった時代、若者が豊かな音楽に触れるきっかけにという親心や 啓蒙というところに力点のあった時代の話であり、今回の試みとはやや趣が異 なるのかもしれません。しかしながら、当時大学生で歌っていた私たちのドイ ツ語の歌唱に気持ちが乗ってなかったとみるや、演奏会一週間前でもあるのに 「全て日本語でやる!」と突然言い出した師匠のことを思い出した訳です。も ちろんその時の訳詩は安田二郎(福永陽一郎の訳詩を書くときのペンネーム) であったのでしょうが…。(その時は結局ドイツ語で演奏しました)
この「日本語で歌うシューベルト」「大人数で歌う 美し き水車小屋の娘」が、 ドイツリートと日本語とシューベルトと合唱曲というアカデミックな垣根をな いまぜにしてしまって、「音楽と想像力を楽しむ人」たちの新たな地平となり、 国と時代を越境する「うた」の持つ普遍的な力を再確認する場になればと思って います。

            
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