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「小さな空:武満徹」 ― あるいはその眼差しの向こうに…

淀川混声合唱団代第8回演奏会より

―夏が終わる頃、…暮れていく空を仰ぐと「時が失われていく」…という感覚に見舞われ ることがある。蝉の声が裏庭の木々の中から聞こえ、夕立の後の濡れそぼった庭石が風を涼ま せると、強かった夏の匂いの中に静かな秋が香る。その時、時は失われようとし、その緩やか な円環の向こうから、別の時間が蘇ろうとする。その「消失」と「回帰」……そこには僅かに まばたきが存在するだけなのだ。

幼い頃、夕暮れによく兄と行水をした。たらいに水をはり、縁側で母が西瓜を切っていた。 風鈴の音が二つに割った真っ赤な西瓜の上に降り注ぐと、時が止まったような不思議な感覚に 身を包まれた。「この場面はいつか見た…」いや、「この場面をいつか思い出す…」そんな気 持ちがあいまいな幸福の中で感じられた。裏庭でよく花火をした。線香花火をバケツの水の中 に放り込み、「じゅっ…」という音に耳を傾けると、夏の匂いと裸足の足に冷え切っていない 土の感触がいつまでも残るのだ…。時々私はこの一瞬が永遠につづいてくれることを願っていた。 「何もかもが変わらないでほしい…」「明日にならないでほしい…」…新しい事態が時間を壊す ことを恐れ、この曖昧な温もりの中から抜け出たくないという感情が支配的だったのだろうか…。

「小さな空」を見上げる武満の視線は、回想の甘美な感傷の中にある。しかし、その平易な 言葉とメロディーの奥に武満自身の永遠の少年の心を感じた時、そして、かすかに見上げている と思われる「視線」そのものにふと同化してしまった時、懐かしさを超えた「生命そのものの持 つ痛み」への病のようなノスタルジアを共有してしまうことになるのだ。

武満徹の音楽を「夢」と「数」あるいは、「水」「木」「鏡」というようなキーワードで解明し ていくことが出来ると思う。あるいは、卓越した技法と、哲学的なメタファーの組み合わせに よって、メシアンやドビュッシーと比較することも出来よう。もちろん私にとって興味深いのは、 タルコフスキーや、谷川俊太郎、大江健三郎、デュシャンやバルト、サティまで総動員して語り 合う事であったかもしれない。

しかしながら、この混声合唱のための「うた」を聴きながら、あるいはその練習をしながら、 もっともっと痛切に感じ、気になってしかたがなかったのは、音楽の中で感じる武満徹自身の 「視線」の角度である。

心は、いつも視線とともにある。
人は、どんな時に見上げ、どんな時に俯くのだろうか。どんな時に視線を躱し、どんな時に視 線を漂わせ、どんな時に見つめるのか。あるいは、どんな時に目を開き、瞳を凝らし、そして 閉じるのだろうか。

武満徹の音楽の世界の中で、歌う言葉の中で、メロディーの起伏の中で、イメージ出来る視線 は必ず微妙な表情と色合いを生み出している。
幼児が母親を見上げ、少年が木を見上げるように、武満は、ふと空を見上げ、雲を見詰める。 夕映えの教会を見上げ、夜空の星を見上げる。あるいはその眼前に広がっている風景を飛び越え て、記憶や夢の彼方にまでその視線は伸びていっているかのようだ。

風、雲、光、翼、水平線、・・・遥か彼方に視線を投げかけた時、虹のように架け渡される時間の 円弧の中で、今生きていることの、喜びとか、悲しみとか、切なさとか、微笑ましさとかが、愛 すべき小さな痛みのように胸に突き刺さる。人生の中で誰しもが持ちうるそのような瞬間・・・、 大袈裟でないまでも、生きていることをもっともよく実感できるような言葉にしにくい情動…、 そんな瞬間を捕らえているのがこの曲集だ。そして、そんな時に武満の視線の角度を確実に感じ 取ることが出来るのだ。

「歌うと、歌うと、歌うと・・・」
…歌を歌っているうちに視線の位置が変わっていく事を感じないだろうか?。
「悲しみ」は「風船のように」緩やかに膨らんでいくが、俯きさまよっていた視線はそれに伴って 僅かに上向きになっていかないだろうか。
「明日は晴れかな、曇りかな…」と歌う少年の視線はどこに向けられているだろうか…。そしてま た、生き残った人たちが「輝く今日と、またくる明日」と口にした時、彼ら(私たち)の力なく、 それでも本能的に明日を見ようとする、生々しい視線を感じはしないか。

武満の音楽には必ず視線の動きが伴う…。
音楽は視線をさまよわせ、漂わせ、時に静かに閉じ、やがて緩やかにはるかな時空へと投げかけて しまうのだ。

「見知らぬ人よ……」という言葉。・・・まだ見ぬ恋人とも、明日の自分自身ともとれる遥かな対象 に対して、「あなたはどこにいるのですか…」と呼びかけたとき、視線は言葉や音楽と同化して 永遠の時空に向けて伸びていく・・・。夢とも希望とも切ない願いとも、痛みを覚悟した挑戦ともと れるその問いかけは、そう歌うまでもなく我々の胸に「信じる…」「求める…」という言葉を覚 醒させてくれているのではないか…。

武満徹はため息をつくように視線を漂わせ、呼吸をするように視線をのばしていく。そして、そ の視線は、それに対して「そうだよ…」とだけいってくれる他者に対して伸びていっているようだ。

手を伸ばすと手と触れ合うように、視線を投げかけると誰かの視線と交じり合う。そしてまた 「うた」は、視線がそうであるように他者の心に向かって歌われる。

人は何かを感じ、求め、何かを与えようとする存在なのだ…。心と心との繋がりとは、そういった 事の時空を超えたやりとりなのだ…。そして、「音楽」というものがその媒介をエレガントに果た しうる…。
武満の音楽はそう直感させてくれるのだ。

…振り仰いだ視線は遥かな時間を超えて、突如として私自身にも懐かしい風景を導き出してくれ た。
光に満ちた川瀬、駆けていく白い小犬。テーブルに眠る銀色のスプーン。
「あんな事を考えていた」という気持ち…、「今でも変わってない…」と思う気持ち…。 記憶と予感との怪しげな戯れの中に身を滑らせてしまった時、突如として純粋な感情が突き上げ てくることはないか。「希望」や「夢」や「悔しさ」や「恋しさ」や「もどかしさ」が固まりの まま溢れ出してくる事はないか。涙すら溢れてきそうになる瞬間をもった事はないだろうか…。

「うた」とは、そんな時に心の奥から弾き出され、零れだしてくる感情の洪水なのかもしれない。

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