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多田武彦先生やすらかに

学生指揮者にとって「自分はどの曲を指揮するのか」ということはアイデンティティの表明のようで非常に重要な判断でしたが、30年前の私は早々と「中勘助の詩から(多田武彦作曲)」と決めておりました。そもそも私の愛読書が「銀の匙(中勘助著)」であり、「その作家の詩に曲がついてるなんて(それはぜひ振らせてくれ)!」と思ったのです。多田武彦の曲では、詩人が醸す典雅な気品とリリシズムが粋な「映像的流れ」の中に表現されています。組曲は長短の澱みない「ショット」を重ね、日常的な身振りの中にある哀歓や「忘れられない瞬間」を見つけ出しながら展開していきます。
私は指揮をしてから約20年後に初めぶて多田先生とお話しをすることになるのですが、多田先生は映像という言葉に敏感に反応をされました。多田先生は若い頃映画監督を志しておられたことがあったようです。実は私も大学時代には映画芸術を学んでおり、以後、共通のボキャブラリーで小津安二郎や山中貞雄の映画技法を音楽に結びつけながら演奏談義をさせてもらったものでした。その10年後には、今度は私が書いた詩が多田先生によって曲になる(男声合唱組曲「京洛の四季」)という事態になるわけですが、多田先生が語ってくださったのはまるで私が若い頃に多田作品について書いたような内容でした。「…市井の中に一人の詩人がいて、多くの人々と同様に、肩を怒らすこともなく、春夏秋冬の移ろいや花鳥風月の美しさを背景に、自らの追憶や喜怒哀楽に向かいながらも、常に感謝の心を抱きながら作詩されたと思われる十二ヶ月の詩があった…」
かねてから、「多田武彦の真骨頂は詩の選択眼である」と主張してきた立場からすると、そこに拙作が入ってしまったことについては誠に恥ずかしい限りですが、恐らく多田先生が作曲に際して最も大切にされていたのは、その「春夏秋冬」「花鳥風月」「喜怒哀楽」…そして、型としての「起承転結」であったものと思われます。つまり、品性を保った情緒性と、様式感を伴った美意識が多田作品の中心だと思うのです。一幅の絵になる風景と瞬間、そこに対しての慎ましい美意識、…多田作品が導くのは合唱音楽を越えて私たちが忘れず大切にしたい感性、態度でもあるように思います。多田先生どうぞ安らかに。

2018年『合唱指揮者協会機関紙:コンタクト』より
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