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〜中勘助の残した言葉のかけらを巡って〜

詩とは映像のかけらであり、音のかけらであり、言葉のかけらであり、時間のか けらである。
およそ論理性とか思想性とはほど遠い。
ある何でもない瞬間・・・、窓越しに風景を眺め、濡れた屋根瓦に寂しげな表情 を感じたとき、白いレースのカーテンの揺れに春の風の静けさを感じたとき、テ ーブルの上のメロンに夏の陽射しが降り注いでいるのを発見したとき、そのよこ で光る銀のスプーンに、単純な形容詞では表し得ない感情を抱いたとき、・・・ 蝶の羽ばたきのようなその微かな心の震え・・、その感情の鏡に浮かんだ小さな 波紋がポエジーなのであり、その瞬間を心のまなざしで受け止め得る者が詩人な のである。

考えてみれば人生は小説の題材になるような特筆すべき大きな出来事だけで形成 されているのではないし、世界にしたって目に見えるもの、手に取れるものだけ で成り立っているのではない。逆に何でもないような瞬間の連続、小さな感情の 起伏によって成立しているのである。そして、むしろその何でもないような瞬間 の中にいろんな色の感情や思い入れを持つことが、世界や人生を豊かに生きてい くことになるのではないかと思う。

プルーストは靴紐を結ぶ何でもない瞬間から溢れ出すような時間の旅をし、バル トは一枚の写真を見付けたその時から世界の持つ豊饒な空間を自覚し出したが、 まさに、世界はまなざしを投げ掛けることによって自由に変化し、豊かに拡がっ ていくのである。小津安二郎の映画ではストーリーやイデオロギーに関係なく無 人の廊下や階段、町や村の風景が挿入される。すべて何でもない風景でありなが ら、はっとするほど新鮮な、あるいは涙が出るほど親しい瞬間として捕らえられ ている。フェルメールの絵画も生活の何気ない仕種を描きながら、ほとんど永遠 ともいえるような感情を封印する。只、それは決して自然主義的なリアリズムの ことではない。現実を即物的にしか認めないモダニズムの合理性を超越すること によってむしろ目に見えない感情に忠実になることがあるのだから。コクトーの 残した短い言葉の羅列は文法的な繋がりという論理性を打ち壊すことによって直 接心に響く音韻のリズムを作り出した。ピカソの彫刻は抽象性を高めることによ って言葉に換言できない力や感情を表現し得た。詩人たちはそうやって思想とか 論理とかとは別の次元で、日常の中から時間と風景の交錯する一瞬に心が微かに 震えるのを自覚し、それを映像や色や光や音や言葉のかけらで表現したのである。

さて、中勘助は日本文学史上稀有な存在であるといえる。いや、「日本文学史上」 などという形式的な言葉は彼には無縁であった。彼の生い立ちについては近頃ブ ームになった感さえある名著「銀の匙」に詳しいが、この完璧な随筆が夏目漱石 をうならせたものであったにも拘らず、文壇にも登場しなければ、世間に名を成 すことも願わなかった。むしろ、人込みや喧騒の社会を嫌い、作家というよりも 詩的な独自の生活への陶酔を愛していたように思われる。

代表作「銀の匙」は引き出しの中の珍しい形の銀の小匙の思い出から始まり、幼 い日々の思い出を綴ったものであるが、単純なセンチメンタリズムという言葉で は片付けられないような独創性と比類のない美しさを誇っている。きらびやかな 宝石のような美しさではなく、ちょうどコクトーが子供の世界を描いたときのよ うに、現実が研ぎ澄まされて幻想になったような雰囲気を漂わせ、山中貞雄の映 画のように繊細で愛らしい表情を見せる。これは、形式はたまたま随筆であった が、中勘助は、子供の世界と子供の心情を子供のまなざしからとらえ、また、何 気ない現実の世界の中に、はっとするような詩的な瞬間を見附だし、美しい言葉 に表現できる詩人だ。

よそゆきの着物の友禅縮緬の美しい一片で縫われた女の子のお手玉の描写・・・ そのお手玉を取り合って睦みあう小さな恋人たちを見詰める視線などは、他の例 を挙げられないほどに繊細であるが、まさに世界は彼のまなざしによって風景に なり、風景は彼のまなざしによって幻想になっている。
彼の残した文章からはそんな幻想的な時間と風景が溢れ出してくるように思える。 どこかで見掛けた風景、どこかで感じた感情、どこかで聞いた話・・・彼の詩と 文章からは遠い遠い時間の果てのほうから感性に囁き掛ける声を感じる。それは 子供の時代への追憶という時間の旅なのかもしれないが、ロマンチックな色付け はなく、子供の頃の小さな落書きを消さずに残しておきたいというようなリリシ ズムだけがほのかに香っている。喧騒の社会をさけ流行を追わず、独自の作風を 保ちながら生涯に随筆を幾つか残しただけだが、その少ない作品は逆にその存在 を知る人からは特別に愛されている。その理由は一も二もなく彼の詩人としての まなざしにある。作為的な空想を描くのでもなく、論理性や社会性や思想性にこ だわることもなく、日常の何でもない光景に独自のまなざしを注ぐことによって 幻想的ともいえるような感情を世界に満たしていく。

考えてみると、子供時代に比べ、社会の流れが早くなるにつれ、世界が画一的に しか見えてこなくなるということはないだろうか。花や鳥を眺めながら相手の心 に語り掛けた時代はなかったか。感受性は、しかし子供の特権ではない。社会の 流れへの盲目的な追従ではなく、ふと息をついて風景を見つめ直したとき、そこ に言葉にならぬ何かの感情を抱きたくなる瞬間がたくさん見付けだせるはずなの である。

「絵日傘」 絵日傘を持って遊ぶ子供の情景に襖越しの呼び掛け・・・
「椿」 久兵衛さんの家の椿を手毬歌ふうに褒め上げる
「四十雀」 睦まじい男女の恋と結婚を四十雀に託してやさしく歌い上げる。
「ほほじろの声」 ほほじろの声を聞いて、昔の孤独と今の傷心をまどろみの中で抱き締めるように歌う。
「かもめ」 わらべ唄ふうに、しかもほんのりとした色気を香らせてゆりかもめをうたう。
「ふり売り」 遠い時間の彼方から、記憶の中の一場面の、朧気な蘇り・・・
現実か幻想かと見まごうような一瞬の永遠化。
「追羽根」 中勘助の病身の兄嫁に対するいたわりの詩であるが、日常の細かなものに対する まなざしと、繊細な表現、匂うばかりの季節感を漂わせた代表的な作風の詩。

演奏において私が最も大切にしたかったのは、「優しい気持ち」「季節感のともな った風景」「現実を越えた距離感」などに反応し得る「柔らかい感性」である。

1989年秋  同志社グリークラブ団内報に


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