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Y.Fのこと

福永陽一郎は針金のように細い身体をしていた。
ただ純粋に合唱を愛したこの音楽家は、死の前日まで音楽のために奉仕した。人工 透析を続けながら指揮棒と青年の感性だけを持って人生を文字通り駆け抜けていっ たのである。
あの日からもうどれくらい経つのだろう。思い出すのさえ嫌だったあの冬の寒い夜 からもう10年以上の歳月が流れてしまったことになる・・・。

1989年、第38回東西四大学合唱演奏会で福永陽一郎は同志社グリークラブと の30年もの付き合いの総決算として「月光とピエロ」を指揮した。私は幸運にも 学生指揮者として男声合唱の基本ともいえるこの組曲の下振りをすることが出来た。 福永陽一郎はすでに5、6年に渡って人工透析を続けているという身体であったが、 一時期の不調を乗り越え思い立ったように「ピエロをやろう・・・」と言った。そして 私には小さくこう呟いた。「最近ようやく音楽が体から溢れるようになってきたん だよ・・・」

単純な和音だけで成り立っているこの曲を歌いこむことは複雑なリズムやアンサン ブルを克服していくよりも随分難しい。学指揮としてのキャリアも浅かった私は詩 を読み漁り、楽譜に書き込みを重ね、とりあえず先生の指示する練習をすることで 精一杯だった。しかし、困難を乗り越えると合唱はかつて無い輝きを極め、後に福 永陽一郎自身をして「春のピエロ〜音楽の理想郷が出来た」と言わしめるものにな った。
6月の東京文化会館の演奏会では「堀口大学の詩と清水修の曲と福永陽一郎の音楽 作りが渾然となって理想の境地に達した」と評された。当日早稲田グリーを振って いた小林研一郎が全速力で走り寄ってきて、「陽ちゃん凄いよ、フルトヴェングラ ーになったんじゃない!」と絶賛したことを、先生自身が子供のように嬉しそうに 何度も話してくれた。

詩の中に刻みこまれているペシミズムやくらい抒情性がどのような音の配列や調性 になって表現されているかということは下振りとして随分勉強になったし、どうし てこの曲がこれほど歌われてもなお美しい輝きを失わないのかということは存分に 思い知らされたような気がする。しかし、どうしても忘れることの出来ないフレー ズがある。
「悲しいからずや、身はピエロ、月のやもめの父なし子・・・」に続く4曲目の3拍 子「月はみ空に身はここに・・・月はみ空に身はここに・・・」の繰り返しである。
先生はこの1回目をテヌートスタッカートで切り分けた。レガートで歌うことに何 の疑いも無いこのフレーズを「き・は」「ら・に」に切り分けた時、福永陽一郎の 細い、今にも折れそうな身体から、指先から、腕の振り下ろしから、表情から・・・、 音楽そのものが溢れてくるのを感じた。

切り分けたことが意外だったというのではない。音を一つずつ大切にするため、一 つの音符に心を込めるため・・・、音符は音楽家の絵筆でとぎれとぎれの溜息のよう に描かれていた。しかし、どうして切り分けるのか、この音作りはどういう意図に よるものなのか、どういう思想に裏打ちされているのか・・・、そういったこととは全 く無関係に、そのとき音楽は「音楽」以外の何物でも無くなっていたのだった。
和音がどうだとか、詩の解釈がどうだといった「理性」の入り込む余地はもう何も ない。ただ、ひたすらに音楽のみが立ち上がっていた。そんなことってあるのだろ うか・・・と自分自身の声と存在と耳を疑いながらも、それを確認せずにはおれなか ったのである。福永陽一郎の身体には頭のてっぺんから足の爪先まで、歌が満ち溢 れていた。
「月はみ空に身はここに・・・」という3拍子で歌われた一片の詩のかけらからは、冴 えきった映像だけでなく、寒さや、痛みや、身悶えするような寂しさや、惨めさや、 諦めや、それでも生きているという安心感や、やさしさや、不思議さが理屈や言葉 では説明の出来ない音楽の塊として紡ぎ出されていたのだ。僕は思わず歌いながら 泣き出しそうになっていた・・・。

夏が過ぎ、秋の多忙な練習の中で定期演奏会の「岬の墓」の練習がついおろそかに なったことがあった。たった一度だけだったが、ひどく叱られて落ち込み自信を無 くしかけたことがあった。練習不足という原因ははっきりしていたが、それでも私 が曲に対して持っていたイメージに甘さがあったことを認めずにはおられず、激し く自分を責めながら何度も楽譜を見直し、技術系全員の力で次の練習までに必死で 音楽を立てなおした。次の練習で先生に「明日が本番でも大丈夫!」と労われたと きには、このまま倒れても良いというほど神経を擦り減らしてしまっていたのだが、 その後もそこまで真剣に練習と向き合った記憶がなく、福永先生の練習がどれほど 張り詰めたものであったかということが思い出される。
逆に何度か先生に褒められたことがあった。私が特に嬉しかったのは「君の手は何 かを語ろうとしているね」と言われたことであった。

福永陽一郎は最後の最後までアマチュアの音楽に拘った。アカデミズムを嫌い、縛 られることを嫌い、媚びることを嫌い、純粋すぎるほどの音楽への情熱のあまり命 まで削ってしまった。アマチュアにしか出来ない120%の音楽、ひたむきな心を 先生は生きることと同じように愛していた。技巧や水準を大きく越えるもの、解釈 とか時代背景とか、そういった次元のアプローチを無にしてしまうようなもの・・・、 誰しもが何らかの形で胸に持っている生命そのものに根ざした「歌ごころ」こそ「 本物の音楽」の源泉なのだ。先生はいつもそう言っていた。そして何より、心のこ もった音楽が人の人生までをも支配する力を持っているということをこの音楽家は 身をもって教えてくれたのである。

先生が亡くなられた後、半年ほど経って楽譜整理の為に藤沢のお宅を訪問したこと がある。
先生の小部屋は亡くなった時のままに保存されていた。数え切れないほどのレコー ドと楽譜を整理しながら、私は部屋の片隅から「月光とピエロ」の楽譜を拾い出し た。何の書き込みもない新しい楽譜の裏表紙には「Y.F」の文字が記されていた。 その横に編曲用のキーボードが主人の帰りを待つ愛犬のようにおとなしく置かれた ままになっていた。
福永陽一郎に触れ、その表情の中から音楽そのものを感じ取った人はあまりに多か った。そして福永陽一郎は同志社グリークラブの歴史にとってかけがえの無い宝物 だった。しかし、はからずも「見上げてごらん夜の星を」を私たちのフェアウェル の終曲に選んだまま、福永陽一郎は私たちのもとから去っていったのだった。

あれから少しばかりの年月がたった。

同志社グリーの歴史は続く。そこで育まれた人たちが様々な場所で音楽活動を展開 している。私自身も先生から教えてもらったことを少しでも語り継ぎたいという気 持ちから、一生懸命の合唱活動を続けている。演奏会のたびに「陽ちゃん、何とか ちょっとでも良い音楽が出来ますように・・・」と祈っている。陽ちゃんはその度に微 笑みとも苦笑いともつかない表情のままこちらを見てくれているような気がする。一 生懸命の音楽の後でふと見上げた夜空の中には私たちの音楽活動を見つめるY.Fと いう星座が存在しているに違いない…、そう思うのだ。

よどこんプラザ、JAMCA通信へ執筆
同志社グリークラブ100周年誌へのエッセイとして改訂


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