エレンと時まもりの木


いつか、どこかのお話です

風が吹いて木の種を運びました。
落ちた種を土が温め
出てきた芽を日差しと雨とが交代で見守りました。
そして歳月が芽を一本の木に育てました。

木は丘の中腹に立っていました。
雲を眺め
星を眺め
鳥の声を聴き
虫の声を聴き

木はいつも微笑んでいました。
暖かな日差しの中で。
さわやかな空気の中で。


1.こんにちは木よ


こんにちは木よ
春のそよ風の中で
木は挨拶をする
緑の葉を揺らして
世界に向かって

木は聞いている
駆けてくる少年の足音を
大地蹴る靴の音を
そして
木は枝を伸ばす
まだ誰も知らない
明日という日に向かって

こんにちは木よ
春の日差しの中で
木は挨拶をする
木漏れ日を作りながら
世界に向かって

木は見ている
流れる雲の行き先を
彼方に光る明日の空を
そして
木は言葉を知る
まだ誰も見ていない
未来という言葉を



木には、風や雲や、たくさんの生き物がやってきます。

啄木鳥が木をつつきます。
「あんまり大きい穴開けるなよ」
「なあに、虫を探してるんだよ、気持ち良いだろ?」
ノコギリクワガタが言いました。
「夜明けの露は甘いね」
「星の光が降り注いだあとはね」

ふと雲が言いました。
「お前は何になりたいんだい」
「何になるってどういうこと」
「あっちの森じゃあ、人間が木で船を造ったよ。それはそれは大きな船さ。
大きな海を渡るのさ」
「船か、気持ちよさそうだなあ」

ムクドリが得意げに口を挟みました。
「向こうの丘じゃあ木はテーブルや椅子になったよ、
毎日ご馳走並べてもらってご機嫌だよ」
「テーブルか、楽しそうだなあ」
「木はいいなあ、人間の手で別のものに生まれ変われるなんて、ちょっとうらやましいなあ」
「そうかなあ。僕は今は特になりたいものはないな。
 同じような毎日を過ごすだけで充分さ。」

リスが言いました。
「でも寂しくないの?」
「大丈夫だよ、寂しいってことがよく分からない。
 それに風や雲や君たちからいろんなことが学べるから、ここにいるだけで、僕は世界中
 のニュースを知っているんだよ」


さて、ある年のことです。木のそばに小さな家を建てた家族がありました。

病気がちな娘のために空気のおいしい場所を探し、丘の中腹のこの木のそばに引っ越してきたのです。
娘はエレンと言いました。

「エレン!こっちへおいで」
「ほら、お前が大好きな木のそばだよ」
「あ、クリスマスの木だ」

初めて木を見た瞬間にエレンはそう言って抱きつきました。
それまで都会のブロック塀の工場のそばに住んでいたので、木があることが嬉しかったのです。

エレンは音楽の好きな少女でした。
いつもヴァイオリンを弾いていました。

木にとって、初めて聞くヴァイオリンの音はどこか懐かしく心惹かれるものでした。
木は時々自分自身もハミングをしたり、小さな声で歌を歌ったりしながらヴァイオリンの音を聴いていました。

枝葉をそよがせて。

2.きれいな音楽を奏でよう


きれいな音楽を奏でよう
風の音と一緒に

明るい音色を響かせよう
日差しと一緒に

窓を開けよう
雲を呼ぶために

ハミングしよう
葉末の滴を見つめながら

誰かが聞いているから
きっと誰かが耳を傾けているから

爽やかな音を鳴らそう
夜明けの空を見ながら

やさしい指で弾こう
夜空の星を見上げながら

風よ
木よ
語り合え
音楽は取り結ぶ

誰かが聞いているから
きっと誰かが耳を傾けているから

きれいな音楽を奏でよう
心の耳を澄ましながら

きれいな音楽を奏でよう
心の瞳開きながら



エレンは学校から帰るといつも木のそばで遊びました。
根っこを枕にしてお昼寝することもありました。
休みの日には父親の肩車で木の枝に上げてもらい、そこで足をぶらぶらさせながら遠くを見るのです。

「街が見えるだろ」
「空が近いよ、手が届きそう」
「鳥が見えたかい」
「うん、雛が餌を待っているわ」

それから父親は木の枝に小さなブランコを作りました
エレンは毎日そのブランコに乗りました。

「どーんと押して」
「しっかり握れ」
「大丈夫、もっと強く」
「そうれ、天まで上がれ」

木はころころと自分の周りを動き回る子どものことが面白くてなりませんでした。
『人間ってなんて面白いんだろう』
人間と関わることで木にもいろんな気持ちが芽生えてきました。

木は、いままで感じなかった役割のようなものを自分に感じるようにもなりました。

開け放たれた窓からは母親の作るインゲン豆のスープの匂いがしてきます。
それはとても穏やかで幸福な香りでした。


3.ブランコ漕いだら


ブランコ漕いだら
空は私の足の下
大地は私の顔の上
ひっくり返った世界の中で
私は空を駆けている
ドキドキドキドキ
弾むよ声が
弾むよ心が
大地に口笛吹いてみた
跳ね返った音が空に響いてる
ああ、なんてことだろう!

ブランコ漕いだら
雲は私の足の下
芝生は私の顔の上
ひっくり返った世界の中で
私は風になっている
ワクワクワクワク
揺れるよ髪が
揺れるよ心が
大地に歌を歌ってみた
声がコーラスになってコダマする
ああ、なんてことだろう!



しかしながら、そんな木と家族の生活に、戦争の影が忍び寄ります。

隣国との緊張関係が高まり、街では連日プロパガンダのためのチラシが撒かれました。
演説が繰り返され、やがて、戦争が始まりました。
丘を越えて、兵士が国境を越えていきました。
市街地を戦車が走り、空を戦闘機が飛んでいきました。
やがて、エレンの父親も戦争にかり出され、エレンは母親とともにじっと耐える生活を強いられました。
小さな家の片隅で怯えながら、父親の無事を祈りました。

戦争が激化すると、空から爆弾が落とされ、街は大きな被害を受けました。
何度も黒煙が上がるのが見えました。
この丘でも耳をつんざくような音とともに爆弾が落とされ、火の手があがり、多くの森が焼かれてしまいました。

木は精一杯枝を広げ、ここに爆弾が落ちるならせめて自ら火の粉を受けようと思いました。
『守らねば』
それが自分の役割であるような気がしてきたのです。
少なくとも耐えなければ。
耐える姿を示さねば。

木は耐えました。


4.耐える木


木は
動かない
木は
語らない
でも木は
小さく呟いている
低い声で
大地とともに

木は
動かない
木は
語らない
でも木は
小さく歌っている
澄んだ音で
空に向かって

木は
立っている
大地の土を掴んだまま
何か大切なものを守るために

木は
祈っている
空の向こうを見つめたまま
何か大切なものを守るために

木は耐えている
木は待っている
時が過ぎているのを待っている
幾年も
幾千年も
強い意志を示しながら



戦争が終わり、平和が戻ってきました。
しかし、エレンの父親は帰って来ませんでした。
戦場で銃弾を受け亡くなってしまったのです。
戦争が終わる1週間前の出来事でした。

エレンは木を見上げました。
木は木陰を作りました。
それは安らぎというべきものでしょうか。

エレンは木の枝に頬を寄せました。
木は葉をそよがせました。
木はエレンを抱きしめているようでした。


エレンは再びヴァイオリンのレッスンに通うことが出来るようになりました。
音楽が彼女を慰め元気づけてくれました。

エレンは家に帰るとブランコに座り、今日あったことを木に語りました。
「街にサーカスが来るんだって!」
「きれいなペパーミントキャンディーを見つけたんだ」

木は頷きながら、耳を傾けていました。
そして、木はたくさんのことをエレンに語りました。
木の言葉で。
木が見てきた様々な風景のこと…、朝焼け、星空、雪景色
木が聞いてきた様々な音のこと…、風の音、虫の羽音、巣立っていった鳥の声


エレンは少しずつ成長し、次第に明るく活発になっていきました。
ところが、ある年の冬、今度は母親が重い病気にかかってしまったのです。
エレンは祈りました。木に。

エレンは母親にインゲン豆のスープを作ってあげました。
自分が病気のときいつもそうしてもらっていたように。
そして、母親の枕もとでヴァイオリンを弾きました。
出来るだけ静かな音色で、
出来るだけやさしい音色で、
心を込めて弓をひきました。

でも、雪が降り、雪が積もり、クリスマスが過ぎ、
間もなく母親は亡くなってしまったのです。
エレンの目に映るもの全てが濡れていました。
灯りも ヴァイオリンも。
涙でガラス窓がゆがんでいるかのようでした。
木には雪が積もっていました。

木は子守唄を歌いました。


5.木の子守唄


夜空を
雪が舞い落ちる
月の灯りが木を照らす

眠れ眠れ 涙の中で
眠れ眠れ いつまでも

木には
雪が降り積もる
星の灯りが夢映す

眠れ眠れ 私の中で
眠れ眠れ いつまでも



春になるとエレンは遠い街の親戚に引き取られることになりました。
住み慣れたこの家や大好きな木とお別れしなくてはいけなくなったのです。
一人で暮らすわけにもいかず、仕方のないことでした。
親戚の夫婦が迎えに来ました。
トラックに荷物を載せ、夫婦が出発を促しても、エレンは木から離れませんでした。

「木よ、毎日見上げた木よ」
「木よ、毎日話を聞いてくれた木よ」
「濡れた頬を乾かしてくれた葉のそよぎ」
「あなたの手触り」
「あなたの歌声」

…全てが忘れられません。
エレンはこのままここにいたい、そう思いました。
でも、木は言いました。
『行きなさい、頑張って』

エレンは思いました
人はやはり何かを越えて行くことが必要なのかもしれない、
誰にでも訪れる別れが自分の場合、少し早かっただけなのかもしれない。
エレンは気丈に前を向き、木は大きく頷きました。

エレンは木のために最後のヴァイオリンを弾きました。
できるだけきれいな音で。

そして「さよなら」の代わりに、木を抱きしめました。
木肌の感触を胸に残し、
人が心臓の鼓動を聞くように木が水を吸い上げる音を聞きながら…。


6.さようなら、木よ


木よ
涙を流す私の姿を見ている木よ
私の涙は大地に吸われ
あなたの根本に届くだろうか

木よ
さよならを言う私の姿を見ている木よ
私の息は風となり
あなたの葉を揺らすだろうか

私は旅立つ
大切なものと別れて

私はあなたの葉の音を忘れない
私はあなたが吸い上げる水の音を忘れない
いつかあなたの枝で育った小鳥が
私の窓で鳴いてくれることを願い
旅立とう
陽射しのあるうちに

やがて大地をみどりが覆う
やがて蕾は花になる
やがて涙は夜空の星になる

私はそう信じているのだから



木は力いっぱい手を振ってエレンを見送りました。

その後、木は身ぶるいをしました。
そして「さびしい」
と思いました。

エレンと出会う前には寂しくもなんともなかったのに、
元に戻っただけなのに、
「さびしい」という感情の本質を木は悟った気がしました。

誰かがいるから…、誰かといたいから…、
「さびしい」という気持ちがあるんだ。

でも、木のそばにはもう誰もいないのでした。
木は鳥の声を聴き、風と語り、陽射しを浴び
ただひたすらに繰り返される朝晩と季節を生きていくのでした。
誰かを守るでもなく、
誰かを喜ばすでもない日々を。

ヴァイオリンの音色も次第に遠のいていくようでした。



時間が過ぎていきました。
年輪だけが増えて広がっていきました。

太陽と星が何度となく空を回転し
芽吹き、茂り、実り、朽ちていく…
そんな季節が繰り返されました。
何回も  何十回も

雪が降り、雪が溶け、また雪が降り
そしてまた雪が溶け

時間がたんたんと過ぎていくのでした。
記憶は木の中に刻まれ
風のそよぎに合わせて、想い出だけが時々ぼんやりと蘇るのでした。


7.木の記憶


木は知っている
遠い国の物語を
旅してきた鳥から聞いたから

木は知っている
遥かな昔の物語を
夜空の星が話してくれたから

木の中にはたくさんの物語が刻まれている
年輪というレコーダーの中に
しまい込まれている

木の肌に
耳を寄せてごらん
物語が聞こえるよ

葉のそよぎに
耳を傾けてごらん
どこかの歌が聞こえるよ

木は知っている
たくさんの歌を

木は知っている
たくさんの歌声を

木は世界を記憶する
木は時間を記憶する

やがて紐解かれる日のために



数十年という年月があっという間に過ぎていきました。
木もずいぶん年を取りました。

ある年のことです。丘の麓が新たな宅地として開発されることになりました。
木は切られることになったのです。

「このあたりを削れば立派な宅地になりますよ」
「この木は切ってしまいましょう」
「材木は何かに利用出来ると思いますねえ」

切られることも戦争で燃えることも同じだとしたら、何かに姿を変えられるなら、それもよいかもしれません。特に恐れることはありません。
大きな感慨も小さな不安もありません。

木は思いました。
椅子になってもいい
テ―ブルになってもいい
ガラスとともに窓になってもいい

大昔「船になりたい」と思ったことがあった
でも、もう一つなっても良いなと思ったものがあったようにも感じました…

それが何だったか思い出せないまま
やがて
木は切られました。

遠のいていく意識の中でかすかに何かが聞こえてくるような気がしました。


8.小さなヴァイオリン


小さな手で
弦を押さえると
ヴァイオリンは
風の声で歌いだす

小さな腕で
弓を弾くと
ヴァイオリンは
波の音を奏で始める

遥かな昔の
懐かしい音を

やさしく
強く

美しい音楽を奏でよう
聞かせたいあの人の胸に



時とは不思議なものです。
同じように刻まれているようで
、 遠ざかっていったり、突然蘇ったり
魔法のように私たちの気持ちに作用します。

木はヴァイオリンになっていました。
職人の丁寧な仕事の果てにヴァイオリンを形作るメインの表板になっていたのです。
そしていま、
ある女の子の小さな手に抱かれています。


木洩れ日のようなゆらゆらとした薄い意識の中で、遥かな昔、こんな小さな女の子が奏でるヴァイオリンの音色を聞いていたような気がしました。

それは自分の記憶だったのか
風に聞いた話だったのか

ともかく
一生懸命に練習しているこの子のもとで
この子の指と肩と、
この子の呼吸と一緒に、精一杯良い音楽を奏でよう
そう思いました。


今日はささやかな演奏会。
女の子のおばあさんの誕生日パーティがあるのです。

お婆さんは、今では身体も弱り、目もよく見えなくなってしまいましたが、小さい頃からヴァイオリンが大好きで、若い頃はオーケストラの団員だったそうです。
「おばあちゃん!」
「今日は誕生日のお祝いにヴァイオリンを弾いてあげるね」
「たくさん練習してきたんだよ」

小さな部屋には暖炉がありました。
ロッキングチェアーにお婆さんが座り、どこからかインゲン豆のスープの匂いがしてきます。
ヴァイオリンはゆっくりと記憶を辿りました。
かつて立っていたあの丘…
鳥や雲とのおしゃべり…
風の音、星の美しさ、陽射しのあたたかさ、ブランコの軋み…
そしてあの小さな女の子…

『エレン!』

そう、思い出したのです。
あの子のことを。
そして気付きました。
いま目の前にいる老婆のことに。

時とは魔法なのだ。
ヴァイオリンは思いました。
過去の時間と現在の時間が繋がっている
長い時を経た今、懐かしい時間と気持ちが蘇ってきたのです

やがて女の子の弓が弾かれ、音が紡がれました。
ヴァイオリンは震える声で歌いました。
力いっぱい。

『ああ、嬉しいっていうのはこういう感じだった』
『心弾むというのはこんな感じだった』

そんなことを思い出しながら。


9.遥かな時間を越えて


遥かな時間を  音楽が越えていく
遥かな時間を  音楽は結び付ける

思い出したよ  あの時を
思い出したよ  ともに歌った君の微笑みを

音楽は人を優しくする
木漏れ日のように
心に降り注ぐ
音楽は人とともにある
人は音楽とともに生きている

夢見ているよ  あの時を
夢見ているよ  君とともに歌う日が来ることを

溢れる思いを  音楽が語っていく
溢れる思いを  音楽が紡いでいく

歌は人を強くする
天地を結ぶ木のように
未来に伸びていく

音楽は人を優しくする
木漏れ日のように
心に降り注ぐ
音楽は人を優しくする
奏でよう  歌を歌おう
生きている時間を輝かせるために



木と女の子とのささやかなお話はこれでおしまいです。

奏でられた音はどこに行くのでしょう。
歌声はどこに行くのでしょう。
音楽は誰かの心の奥の深いところで眠っていて、ときどき目覚めるものなのかもしれません。
いくつかの物語を伴って。


この物語の続きはヴァイオリンの音の中で想像してみてくださいね。




作曲:山下祐佳   2020

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