―夏が終わる頃、暮れていく空を仰ぐと「何かが失われていく」…という
感覚に見舞われることがある。蝉の声が木々の中から聞こえ、夕立の後の
濡れそぼった庭石が風を涼ませると、強かった夏の匂いの中に静かな秋が
香る。幼い頃、兄と行水をした。たらいに水をはり、縁側で祖母が西瓜を
切っていた。風鈴の音が二つに割った真っ赤な西瓜の上に降り注ぐと、時
が止まったような不思議な感覚に身を包まれた。「この場面はいつか見た…」
いや、「この場面をいつか思い出す…」そんな気持ちがあいまいな幸福の
中で感じられた。
私たちは子どもから大人へと成長し、様々な時代や歴史を経験し、流行を
追ったり、時代に振り回されたりしながら、年をとる。しかし、同時に私
たちの中にも時間がある。大人になった私たちの中には、いつまでも子ど
もの頃の時間が、そのときに見た風景や匂いや手触りとともに残っている
のではないだろうか。そのような外側の時間と内側の時間が私たちを取り
巻いている。そしてそこを往来する扉が、小さな傷跡のように見え隠れす
る季節の欠片(かけら)なのだ。
多田武彦先生に作曲していただいた「京洛の四季」を構成する言葉は、確
かな手触りを持った私たちの想い出の中に存在する季節の欠片だ。
薬缶を乗せたストーブ・・・
山椒の枝から飛び立った鮮やかなアゲハ蝶
遠い空の向こうに見えた雲の階段
私たちはこのような瞬間が永遠に続いてくれることを願いがながらも、一方
でそれが確実に失われることを知っている。しかし、それらは夢や錯覚を含
む季節の想い出として、いつでも控えめな残り香を放ちながら反復し、やが
て誰かのえくぼや毛糸のマフラーの中に宿るのだ。
私たちの胸にともる小さな灯りとして。
追記:私の拙い言葉から、想い出を読み解き、心に残る音を紡ぎだしてくだ
さった多田武彦先生に感謝申し上げます。