夢見る魚のあぶく
by みなづきみのり

パン屋さんの匂いでしょを巡る思い めっせーじ


何かと思い出のある京都府庁前のパン屋さん「進々堂」のカウンターに座り、一人でパンを食べていたときに、突然パンを題材にした歌詞を作ってみたくなりました。と、同時に一気に合唱物語の緩やかな輪郭が自分の頭の中で出来上がり、その興奮のままテキストもないのに山下祐加先生に作曲をお願いしたのでした。
曲は、合唱団「葡萄の樹」の委嘱作品として作曲され、「アルティ声楽アンサンブルフェスティバル」の記念企画の中で、公募合唱団によって発表されたのですが、曲誕生のエピソードを「進々堂」さんにお伝えしたところ、何と演奏会の当日に500個の大きなクロワッサンを終演時間に合わせて焼いて運んで来てくださったのでした。演奏終了後のホールロビーには焼き立てのクロワッサンの香りが充満し、音楽を聴いた後の観客と、演奏した後の出演者が一緒になってプレゼントのクロワッサンを頬張りました。
音楽とパン。どちらも日々なくてはならないもの、様々な人が笑顔で分かち合うもの、…感謝の気持ちの象徴のようにして私たちを繋いでいるもののように思えました。

さて、私たちは、誰とどんなパンを食べてきたのでしょうか?
どんな話をしながら?
どんなことを考えながら?どんなお皿で?
一人暮らしの最初の朝にパンを食べた人はありますか?
誰かの食パンにジャムを塗ってあげたことがありますか?

パンを巡って、私たちはたくさんの場面を生き、たくさんの思いを募らせ、たくさんの夢を語ってきたのではないでしょうか?
レイモンド・カーヴァ―の短編小説「A Small, Good thing」のラストシーンを紹介しましょう。不慮の事故で子どもを失った父母に、子どものいないパン屋の主人はそれまでの誤解を詫び、自分自身の寂しい境遇を話した後にパンを差し出します。「それでもちゃんと作られたものを食べて、頑張って生きていかねばならないのですよ。こんなときは、物を食べることです。それはささやかなことですが、少しばかりは助けになるのですよ」
数日間何も食べることが出来なかった夫婦はパンの匂いをかぎ、一口食べてみます。
「糖蜜とあら挽き麦の匂いがする」
深夜でしたが、三人はコーヒーで温まり、パンを食べながら朝まで語り合うのでした。

パンによって悲しみが癒えるなどということはないでしょう。それでも、しっかり作られたものが生きていかねばならない人の生命や気持ちを支える助けにはなるのかもしれないですね。
食べ物は誰かの役に立つために心を込めて作られるもの。良い音楽も演奏も、きっと同じように心を込めて作られているものなのでしょう。




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