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 abさんごをよみかじる 〜つぶやく、、心の間歇と 

13−1 2013.4.10

つぶやく時間がないといえばそうなのだが、つぶやくほどに気持ちが膨らむ ゆとりがまったくないとも言える時間を過ごし、それでも季節の変わり目を 迎え、新しい陽光にてらされた気持ちがあぶくのように湧き上がってきたも のを今こうやって仕方なく文章にしてみている。ここでいう「仕方なく」と いうのは言葉の表情を表出したのであって、本当は厳密な意味で仕方なくで はない。何しろ誰にも頼まれていないのだから。強いて言えば私自身の心の 奥か片隅かからの要請に従ってということだろうか。

abさんご 久しぶりに手にした本が、黒田夏子の「abさんご」だったので、自ずと私 の書き方もそれにほんの少しの影響を受けたものとなってしまうのが可笑しい。
もちろん綿矢りさも含めて特に女性には素晴らしい作家が多いと思うが、村上 春樹のレイモンドチャンドラーの新訳以外にはほとんど小説の類を手に取らな い10数年間を過ごしてきた私からすると、久しぶりに手に取った本をその 10秒後にはカウンターに持っていくという行為で、その衝撃というか、衝撃 というほどには強くないが感じた懐かしさとか親しさのようなものを確認する ことが出来ると思う。ものを買うことには一定の躊躇をする私としては、10 秒というのは早い。まるで、北川昇という作曲家が学生だった頃に書いた短い 1曲を聞いた直後に彼を訪ねて楽屋に行って組曲を書いてくれるよう頼んだ時 くらいの瞬発力であった。
普段から俊敏な行動をするわけではない私の行為として特殊だということである。
もちろんそれが最初から買うと決めている誰かの新作というならば分かる。
芥川賞を取ったらしいことを知っていたとしても、そもそもそのような賞にほ とんど興味を持たない私としては、何か私の中のものを掻き立てるものを感じ、 特に章立てのタイトルを見た瞬間に、そのようなにおいを感じたのである。
そう、匂いなのである。

その証拠に私はまだこの作品を読み切っていない。
それは、淀川長治がチャップリン自伝を読み終わるのが嫌だったので少しずつ 読んだとかということと少しは似ていて少しは違う。似ていない部分は、そう ではなく、私はあちこちを飛ばし読んでいて、最初から最後までを読むという ことをまだしていない、ということである。一応最初から順番に読んだ若い頃 の作品「毬」には、中勘助や岡本かの子のような感性を感じた。まるで、私が その中の主人公であったかのような親近感だ。そもそも反対から読み始めない といけない「abさんご」には、ジェイムスジョイスの翻訳を数行読みつつ躊 躇し、やめたふりをしながらまた読みつつためらう、という行動をとっていた ことを思い出した。ちなみに横書きに関しては、(われら辛うじてくわえられ るか)パソコン世代にとっては何の違和感もない。こうやって今書いている文 章が何よりの証拠だ。固有名詞を使いすぎず、漢字を時おり丁寧に避けながら ひらがなに「ほどいていく」という行為については、特にそれを技法にする意 味については何も感じない。ただ効果ということでは、言葉のもつ手触りや肌 触りを生かすという点において、また読者の想像力を喚起させるという意味に おいて、なるほどと感じさせることはある。どこから固有名詞とするのかとか、 これで200ページはしんどいとか、主義とかということになると議論の余地 はあるだろう。ただ、言葉のとらえ方という意味においてはほどよく適度であ るという感想を持つ。
みかんそのものを食べるか、みかんの香りの入ったゼリーを食べるか、みかん 色をしたキャンディーを眺めるか、みかん色の服からみかんを思い出すか…、 直接的な味わいでなく、まわりまわってむしろそれを強く意識させる言葉の使 い方という意味では、そうなのである。「そわれ」という喫茶店があるのだが、 入るとたいていのちょうど品のデザインが葡萄であるということが何とも気持 ちの良いという感覚にも似ていて、言葉が世界から意味を限定的に「切り取る」 ものではなく、何かを「喚起させるもの=匂うという言葉に近づいている」と して機能するのだということを思い出させる。何しろ「そわれ」から出てきた ときには、葡萄いろの心になった気持がする。詩的とかファンタジックとかと いう言葉にも近いかもしれない。黒田氏は言葉の意味をいったん解体し、再構 築(言い換え)しているとも言えるだろう。ことばの醸し出す雰囲気に囲まれ る幸せ感というのだろうか。この本の中で、言葉は現実と思い出と内的な時間 とリアルな時間の中を飛翔しているように思う。ことばはこばとのように飛び 立っているのである。まあ、その比喩は本質を付いたものではないような気が するが。そもそも周辺とか示唆とか言い換えとか、類似とかいうことが重要だ という意味ではそうである。

例えば私が今「Asa−nisi―masa」という呪文のような文言を口に したとしたら、それはビビディバビデブー以上に謎めいた何かのアクションの ための号令としても、メタファーとしても非常に印象的であるし、桜と書くか、 さくら、とかくか、Sa−kuraと書くかということで、異なるニュアンス が生じ、言葉に伴い、意味と発語や発音、シニフィエとシニフィアンの戯れ関 係を思い出させるのと同様に、書き手と読み手の間に生じる絶妙な間合いのよ うなものを上手く感じさせているとも言える。
解体し再構築される。
コラージュのようにきらめく。
しかもその寸法も的確な長さで。

寸法ということでいうと、蓮見重彦氏がちょうどゴダールやダニエルシュミット らの一時期の名作が88分で終わっていることを取り上げていた文章を読んだよ うな気がするが、そんな些末で意味のないと思えることを取り上げたときの感覚 はこんな感じ、このような観点だったのかという気持ちになるくらいの丁度さを 感じてしまうのである。
冗長に過ぎるものには冗長なりのメッセージ性があって良い。マーラーやブルック ナーやアンゲロプロスや小川伸介がそうである。しかし、88分の映画がそうで あるように、このabさんごにしても、適格なコンパクトさをひらいている。ひら いていると書いたが、もっと言葉を凝縮すれば30ページくらいのものであろう か。それが70ページくらいにひらいているところが何とも言えない。だらしな いというわけではない。時間で言うと、朝の七時の朝食ではなく、9時半くらい の喫茶店のモーニングのようなものだ。
誰かの詩や文章が、それは私のことだが、いつもどれが完成形か分からず、「こ っちでは同じ言葉が漢字になっているのにこっちはひらがなになっているのはこ ういう意図があるからですね」と言われて、答えに戸惑ってしまうような緩さの ことである。半開きのドアのような、隙間の空いた窓のようなものである。解釈 性とか意図とかではなく、これは黒田氏にとっては50年かけて発見した手法な のかもしれないが、私にとってはこのような文章の書き方はまるで私が書いた文 章であるかのような親しさを感じるのである。もちろんあのようには書けない。
そこには「毬」に萌芽している天賦の才能が50年かかって発見した自身の存在 意義のようなもので、重みを感じる。私の場合は、どんなに反発しても、どんな に努力してもつい滲み出てくるルーズな性癖のようなもので、恥ずかしさしか感 じない。

さてどうでも良いことを書き連ねたが、ものごとを纏める感覚に乏しい私は 「abさんご」を最初から最後まで読み通せるのだろうか。美味しいと分か っている料理が出てきたときの香りに感激したようなもので、食べる前につ い写真をとってツイートをするように読み終える前につい感激して書き出し てしまった。私は画集か何かのように一日に何度も本を開き、適当なページ の数行を味わっている。そのような読み方をすべきだというつもりは一切ない。 私はそのように楽しんでしまっているということなのである。心の間歇とでも いう虚の隙間を埋めるために。


閑話休題というところか。
ところでこの文章、高校時代の私の文章に似ている。

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