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 同志社グリークラブ110周年記念演奏会

14−8 2014.12.18

12月7日に京都コンサートホールにおいて同志社グリークラブの110周 年記念演奏会が開催されました。思い出に足を引っ張られたり感情の洪水に 飲み込まれないようにしようと、私はたいていの記念演奏会には、「何の感 慨もない、より良いものは次にあるのみ」と自分に言い聞かせてきており、 「なにわコラリアーズ」の20周年だろうが、「淀川混声合唱団」の25周 年だろうが、振り返って思いに浸るということなど私は意識的にしてきませ んでした。もっとも、まだ未熟で(肉体的には退化)勉強あるのみ、チャレ ンジあるのみ、と思っているので、出来るだけ振り返ることなどしないとい うポリシーです。それはいったん振り返ってしまうと、本来的にはドライで ないタイプなので冬場の寝床のようになかなか出てこられなくなって困る、 からでもあるのです。
この同志社グリークラブ110周年ということについても同様でした。もち ろん節目としての認識はありますし、思い入れがあるからこそ、委嘱に際し、 ここだけは自分で詩を書いて後輩たちにメッセージを送りたいという気持ち がありました。なので、万全の作曲家である信長貴富先生に曲を依頼し、 作っていただいた曲を一生懸命に振るということにおいては、気持ちを込め てやり切ったと思っています。
委嘱新曲「帆を上げよ、高く」については(→帆を上げよ、高くに寄す) に記載していますが、私のパーソナルな思いや記憶が空回りするようにして 見え隠れしていた歌詞についても、天才作曲家が逐一指摘し是正していってく れた上に、普遍的で本質的なフォルムを与えてくれました。おかげで、身内 の記憶で閉じることのない「全ての若者たちの歌」になっています。素晴ら しい組曲が男声合唱の世界に誕生しました。ぜひ、多くの若者に歌ってもら えたら幸いです。
それで終わるはずなのでした。

しかしながら、その後、ドラマは続き、見えざる手にめくるめく記憶の数々 を引っ張り出され、私はしばし深い感慨に足を取られてしまうことになりま した。「なるほど、歴史とは、人生とは、音楽とは、そういうことか、」と いう気持ちを噛み締めながら…。

ちょうど25年前の私は、学生指揮者として85回目の同志社グリークラブ の定期演奏会の舞台に緊張して立っていました。人数の充実と、声の充実と、 福永陽一郎の音楽の充実と、結果としてそのステージが福永陽一郎の最後の ステージになったということで、恐らく近年(近代)の中では特に重要な演 奏会として語り継がれているステージです。それを客席で聞いていた一人の 中学生が25年ぶりに同志社グリークラブの定期演奏会を聴きに来ていたこ とを私は演奏後に知らされました。
トランペットを吹いていた中学生は、福永陽一郎の指揮する「岬の墓」の演 奏を聴いて大きな感動と自分の音楽の道が開けていくのを感じました。しか しそれ以上の衝撃として、隣の客席で号泣する大人を見て、その姿が「ある 種の尊い人生と音楽の謎・・」のようなものとして引っかかっていたそうで す。そこまで突き動かすものは何なのか、演奏中に泣けるということはどう いうことなのか、という問いが25年間胸を離れなかったということでした。 25年後、当時の中学生は,今は音楽家になっているのですが、110周年の 同志社グリークラブの演奏会に福永陽一郎編曲、そして福永陽一郎のペンネ ームである安田二郎作詞の「十の詩曲(ショスタコーヴィチ作曲)」がある ことを理由に東京から京都まで新幹線に乗って足を運んでくれたのです。実 に25年ぶり2回目の同志社グリークラブの定期演奏会です。
演奏会後、かつての中学生は私の楽屋に来てくれました。
彼は、委嘱新曲があることを意識せずにはるばるやってきた同志社グリーク ラブの演奏会で、その委嘱曲の2曲目を聞いて思わず号泣してしまったこと、 25年前に自分の隣の席で号泣した大人のように、不意にあふれた涙を堪え きれなかったことを伝えに来てくれたのでした。

二曲目とは「春愁のサーカス」。私が作曲家とのやり取りの中でパーソナル なものを出来るだけ違う言葉に置き換え、一般的なイメージの中に封じ込め た歌詞を持つ曲でした。パーソナルなものとは、紛れもなく私の師匠福永陽 一郎の思い出と憧れです。

しかしながら、かつての中学生は本当は聴きに来たかった病床の祖母にこの ようにメールをしたのです。
「おばあちゃん、けいしさんが、『春のピエロ』って歌詞を書いてくれていたよ」

お分かりの方もおられるでしょう。
おばあちゃんとは福永陽一郎夫人の暁子さん。
かつての中学生は今は音楽家として東京で活躍されている福永陽一郎のお孫 さん小久保大輔さんでした。
直接的なものを出来るだけ別の言葉に置き換え、一般的なイメージを纏わせ た自分の感情は、近しい感情を抱いていた大輔さんには十二分に見抜かれ察 知されたのでした。
いや、ある意味では、福永陽一郎との関係を全く持たない天才作曲家信長貴 富の音楽が芸術の魂の問題として、普遍的な音楽を彫塑してくれたからこそ、 音楽から直接的に伝わるものの中に私の心の底にある記憶を見つけてくれた ということでしょう。このことが分かった瞬間に、私には「再会」という言 葉がよぎりました。
この再会とは、私が福永先生の死後、藤沢のお宅に1週間も泊り込んで荷物 の整理をしたときに近所のファミレスで、一緒にご飯を食べていたシャイな 中学生との再会ではなく、今の私たちと福永陽一郎とその音楽に謎や深い衝 撃を得ていた頃の私たちとの気持ちとの再会でもあったと思います。
この夜は満月でした。

月はみ空に身はここに…。
…と私たちは空を見上げたのでした。

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