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 エストニア「歌の祭典」に参加する

19−01 2019.9.07

かつて自分自身の勉強のために和歌山児童合唱団の練習や合宿にお邪魔をしたご縁で指揮者の沼丸先生とはともに「合唱、子どもの合唱」の未来を語り合う仲間として懇意にさせてもらっています。そのようなこともあり、今回、業務で同行不可能となった沼丸先生に代わって、和歌山児童合唱団とともに和歌山児童合唱団が招待されたエストニアの「歌の祭典」に同行(合唱祭の翌日のジョイントコンサートでは指揮も)させていただくことになりました。結果としてこの5日間は私の人生の一番の宝物として心に深く刻まれる時間となりました。

   

エストニアの「歌の祭典」は毎回10万人以上が参加して開催される世界文化遺産にも登録されている催しですが、近年では5年に1回ずつ行われ、実は今回が第1回から数えて150周年という記念の年でもあります。例によって、英語が得意でない私は、異様に緊張しながら飛行機に乗り込んだのですが(そのわりには良く行っている方だとも言えるのですが)、ヘルシンキを経由して辿り着いたタリンの街は西ヨーロッパの避暑地でもあり、旧市街の残る美しい街でした。街並みが大変気に入ったのと、食べ物が美味しかったことと、自分自身の出番が少ないこともあって、今までの海外遠征にはなく、すぐにリラックスすることが出来ました。これはきっと旅慣れた和歌山児童合唱団の明るいメンバーたちのおかげでもあったと思います。
和歌山児童合唱団は数々の国際場面での実績が買われて、世界中のいくつかの合唱団とともにこの伝統ある「エストニアの歌の祭典」に「招待」されているのですが、この合唱祭は個別の合唱団が歌を披露するということではなく、すべて合同合唱で成り立っています。2日間にわたり、児童合唱、男声合唱、女声合唱、混声合唱、子供から大人までの大合同…、というようにいろんな形態で伝統的な曲から新曲まで様々なエストニアの合唱曲を歌うのです。つまり、和歌山児童合唱団のメンバーはエストニア語の曲を20曲ばかりも暗譜してその合同合唱に参加しているということなのです。もっともプロナンシエーションだけをみると、エストニア語は日本人が発音しやすい言葉ではありますが、このような言葉の壁をやすやすと越えていくのが子どもたちの凄いところでもあります。

さて、私のせいではないと思いますが、残念ながら観光を終えた翌日からはすべて天気予報は雨の予報で、予報通りリハーサルも雨(ときどき激しい豪雨)の中で行われました。歌の祭典は野外で行われるために雨具(傘は差さない、レインコートのみ)を着用して風雨に耐えながら子供たちは歌い、私はそれを応援するのみでした。(もっとも山の天気と一緒なので、ときどき青空が出ます。)

…必死で耐えた雨天のリハーサルを終え、天気予報を裏切って奇跡的に晴れた合唱祭の当日、和歌山児童合唱団とともに5キロの道のりをパレードしました。市内の中心に集まった合唱団はそれぞれが民族衣装や独自のコスチュームを身にまとい「歌の広場」目指します。13時に最初のグループが出発して、最後のグループが出発するのが夕方でしたから、そのことからもこの催しの規模の凄さが分かります。和歌山児童合唱団は浴衣を着て歌いながらパレードをしましたが、市街地を横断して海岸に至り、その海を背にしながら「歌の広場」を目指す道のりにはずっと拍手と声援がありました。なんと素晴らしいことでしょう。そして「歌の広場」では世界からの参加者を含む2万人の歌い手が集結するのです。

 
 

そこから先は、またまた私の出番はなく歌うメンバーを応援することだけでしたが、私は「歌の広場」の15万人が集まる野外観客席の最後尾に回って見ることにしました。実は、野外観客席の最後尾にはエストニアの音楽の父エルネサクスの大きな銅像が(ちょうどこの音楽会を聴いているかのように)設置されているのです。リハーサルの時にそれを確認した私は「当日はそこから聞こう(見よう、応援しよう)」と決めていたのです。浴衣姿のメンバーたちを歌唱メンバー(2万人)の中に確認した後に、客席の最後尾まで行って銅像にによじ登る笑顔の少年たちの横で聞きました。そして、ここで聞いた歌声は私の人生の中でも最も感動的な歌声の一つになったのでした。

演奏会の終盤、白夜には無数のエストニア国旗が揺れ、灯された聖火の向こうにはバルト海が見えていました。最後の曲になると(22時頃でしょうか)、ようやく海と空の境目に夕日が薄く滲み、ヘルシンキから到着した船が汽笛を鳴らしています。気が付くと、隣の男性もその隣のお年寄りも銅像によじ登った少年らも立ち上がって歌を歌っていました。
この素晴らしい光景をどう表現したら良いのでしょうか。
エストニア国家が経験した数多くの弾圧と苦難の歴史の中では、自国の言葉を話すことが禁止されていた時期も長く、このような場で仲間とともに自国の言葉で歌うことこそが「自分たちの生の証」だったということを聞きました。この歌の祭典とは単なるイベントごとではなく、「ともに歌うこと」が、励ましながら「ともに生きること」であるという確認の場であったのではないかと思いました。
遥か向こうの2万人が歌うステージには、地球の裏側からきた和歌山児童合唱団のメンバーが一緒になってエストニア語で歌を歌っています。離れていても共感し、励まし合い、ともにこの地球に生きているのです。素晴らしいことです。歌は国境を越えて人と人の懸け橋になる、歌は国を超えて人と人との気持ちを結び付ける、…ということをメンバーは体現してくれました。
気が付くと、隣の男性の音程は外れていました。年寄はしゃがれた声でした。少年たちの歌は歓声と区別がつきませんでした。きっと散髪屋もタクシーの運転手もパン屋さんもサッカー少年も、腰の悪いおばあちゃんも…、みんなが心を合わせて歌ってるんだ、と思いました。
そのようにありたい、そのようにあらねばならない、と深く心に刻んだ夜となりました。

 
 

翌日はヤーニ教会でエストニアラジオ放送少女合唱団とのジョイントコンサートがあり、私が和歌山児童合唱団を指揮させてもらいました。教会の響きの中でラテン語の曲を歌うことと日本の曲を紹介することの両方が出来ました。私にとっても、子供たちにとっても、とても素晴らしい体験になったと思います。

P.s
ヘルシンキで和歌山児童のメンバーと別れた私は、半日あったトランジットの時間で人と会うためにヘルシンキ中央駅を目指すことになりました。ただし、気持ちがはやり、うかつにも何の案内本も予備知識も持たないまま単独行動してしまったので、かなり焦る事態となりました。英語が出来ないとしても、アルファベットから基本事項を類推することは出来るものですが、フィンランド語の単語が英語からかけ離れ、想像を超えていることをすっかり忘れてしまっておりました。どの電光掲示板もフィンランド語とスウェーデン語と英語が入れ替わりで出てくるので、よく分からなかったのです。もちろん時間がゆっくりあったら落ち着くことは出来たのでしょうが、時間のないなかヘルシンキで少しでも早く人と会うことになっており、とりあえず直観で電車に飛び乗ったものの、自分の乗った電車の行き先表記の中にヘルシンキ的な文字を見つけられなかったのです。(突然、京都から阪急乗って大阪駅に行きたい外国人の心境が思い浮かびました。UMEDAと表記されてもガイドブックの解説がなかったら分からないだろう、とか…)。反対方向だったらどうしよう、とか、普通と特急うで時間が倍違ったらどうしよう、とか、いろいろな原始的な不安の中、気が付いたらヘルシンキ中央駅に辿りついていました。(何しろどれに乗ってもヘルシンキ中央駅に着くことが後でわかる。)

  
 


ひとまずは無事目指していたAINOというレストランに入れました。とっても素晴らしいレストランでした。店の人に紹介してもらったフレバリーウォッカがまた格別で、帰国後日本では手に入らなかったのでわざわざ空輸したほどです。

エストニアでは合唱指揮者の上田綾香さんと再会することが出来ました。私がよく知っているのは松下耕先生のところで勉強をされていた学生の頃でしたが、エストニアでご結婚もされ、すっかり成熟した生活者として地に足のついた活動をされていました。頑張ってほしいなと思います。


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