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 家族の思い出、あれこれ  

前項で、我が家の日曜の朝について延べましたが、逆に幼い頃、 夜の八時頃に電話があるとたいてい父からの電話でした。
ろう学校の勤務が終わったあと、夜はいつも集会や何かの仕事で 不在にしていましたし、地方に宿泊する晩などにもたいていその時 間に電話があり、「きっとお父さんだね」と言いながら誰かが電 話に出ると、「変わったことはないか?」とだけ聞いて、今日や 明日の帰宅時間を告げて切れたのでした。携帯のない時代、きっと どこかの公衆電話等から10円玉で電話をしてきたのだと思います が、夜の八時になるとほとんど日課のようにして電話がなったもの でした。
当時の私の同世代の家族によく見られた「マイホームパパ」という イメージとは程遠い父親で、幼い日の私なんかは、山菜摘みの山登 りより遊園地に行きたかったり、盆栽用の苔集めの散歩ではなく公 園でキャッチボールをしたかったり、黒澤明の映画にもびっくりし たけど家族で映画村(当時、家の近くの太秦に誕生)に行って見た かったりしたので、ちょっと友人の家庭を羨ましくも思ったもので した。しかしながら、よく考えると多忙を極める全国的な活動の中で も、旅行の項目のところでも述べましたように、家族に対する心遣 いのある父でした。(問題は全ての場合において自分の趣味と都合 に家族が合わさせられる(振り回される)という点だけでしたが。)
考えてみれば、恒例の家族行事は山登りや河原での飯盒炊爨だけでなく、 例えば5月の連休前には小さな庭に一緒に鯉のぼりを上げたり、 12月のクリスマスにはツリーを飾ったりもしていましたし、中 でも、私が最も楽しみにしていた行事がお誕生会(合計年に4回、 父母と兄と私)でした。誕生会には子供たちによる「出し物」があ るのが常でした。兄弟ともに「エレクトーン」を習っていたので、 エレクトーン発表があったり、紙芝居とかクイズ大会とか手作り ゲームなんかを段取するのが子供たちの役割でした。そんな日は 父親はお酒が入って上機嫌で過ごしてくれましたが(今から思う と子供たちが眠ったあとに仕事をしていたのでしょうか)、そ れぞれ家族の誕生日だけは、何とか必ず早く帰ってきてくれるので、 ごちそうも含めて私にしてもとっても最も待ち遠しい行事なのでし た。父はそういった会ではかならず会話の様子等をカセットテープ に録音をしてくれており、幸いにしていくつかのテープが残ってお りますので、今でも懐かしく楽しい様子が浮かび上がる仕組みには なっています。

kyoto-tower その他の思い出として、私個人のことでいうと、やはり母と兄が 長期不在の時期、二人で過ごしていたことが最も大きな思い出です。 母と兄の二人が新幹線に乗って横浜に向かった後、珍しく父が京都 タワーの屋上に上らせてくれたことがありました。初めて京都タワ ーに上り、双眼鏡で京都駅の方向を覗かせてくれながら、「今お兄 さんたちが乗った新幹線があれだよ」と教えてくれた瞬間が忘れら れない瞬間として記憶に残っています。またずっと後年になって私 が大学の合唱団に入って広島の福山で演奏会をした時、毎夏広島大 学で教えていた父が知人を連れて見に来てくれて、その後居酒屋に 呼び出されたことがありました。合唱団は当地OBの計らいでホテル の豪華ディナーだったのですが、私一人が父に呼び出されたために それを抜け出してさびれた居酒屋で父と友人の相手をするはめにな ったのです。内心「残念だなあ」という気持ちでいっぱいでしたが、 その後を通してもあまり父と外でお酒を飲むという経験もなく、孝 行息子?が登場して自慢気な父の赤い顔が懐かしく思い出されます。

P.S.
「家族写真」と言って思い出すのが、70年代後半に父が海外に行 った際のエピソードです。父は海外オンチで、出発に際しても、 「海外に行くのに家族写真がいるのを忘れていた!」と電話がかか ってきて、慌てて母に空港まで写真を持ってこさせたりしていました。 当然のことながら、「海外ではあると便利」というアドバイス程度の ものを、父が勘違いしていただけのことなのでした。家族中が心配 した海外旅行でしたが、撮ってきた写真をスライドにして楽しそうに 家族に語ってくれたことを思い出します。ブルガリアだけはまた行き たいと言っていたので、とても気に入ったのでしょうか…。そう言え ば「御飯と味噌汁」がほぼ不動の朝食メニューであった伊東家の朝食 が、父の渡欧を境にパン中心へと変わり、牛乳を全く飲まなかった父 は得意げにヨーグルトまで食べるようになったものでした。

全国手話通訳問題研究会の機関紙 より
 
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