オデュッセウスの帰還(初演版)

皆さんはトロイ戦争をご存じでしょうか?
ギリシャ神話の中核の一つをなすとも言われる長い長い戦いの話ですね。増えすぎた人類の数を減らすために神々が計画したものだとも言われ、神と、神の血を引く英雄と、人間たちが入り混じります。
ストーリーはその前段の神話や、家系図を持ち込んでの因縁話があり、驚くような広がりを持つのですが、直接的には争いの女神エリスが、神々がこぞって出席した婚礼の祝宴に招かれなかったことを恨んで「最も美しい女神へ」と記された黄金のりんごを宴席に投込んだことが発端とされます。りんごを巡ってヘラとアテナとアフロディテという三人の女神の間に争いが起り、判定する役にはトロイの王子パリスが当たりました。パリスの審判というやつですね。パリスは三人の女神の中からアフロディテを選びます。しかし、アフロディテはパリスに「自分を選べば世界一の美女を与える」と言う密約を結んでいたので、その約束を果たすためにギリシャのメネラオス王の妻になっていたヘレネを奪わせたのでした。そして、パリスによってトロイに連れて行かれた「美女ヘレネ」の奪還作戦がこのトロイ戦争というわけです。
ギリシャとトロイにはそれぞれ神々が付き、神々の代理戦争の様相を呈したのですが、総大将のアガメムノンを中心に組織されたギリシャ側にはアキレウスやディオメデス、オデュッセウスなど、各地域の王であった英雄たちのすべてが加わりました。一方トロイもパリスの兄ヘクトールをはじめとする勇士たちを擁しましたので、ギリシャ側は優勢に進めながらも容易にはトロイの城壁を陥落させられず、結局戦争は 10年間続いたのです。その間多くの英雄が戦死しました。両国一の英雄、アキレウスとヘクトールは共に壮絶な戦死を遂げます。戦争の発端となったパリスは兄ヘクトールの仇であるアキレウスを討ちましたが、自身もまた倒れました。そして最後の最後には知将オデュッセウスの木馬計画により辛うじてギリシャ側の勝利に終わるわけです。
有名なホメロスの叙事詩「イーリアス」はその長い10年戦争の一部を描いたものですが、ホメロスにはもう一つ有名な叙事詩「オデュセイア」があります。そちらは戦争を終わらせた知将オデュッセウスが故郷に帰るまでの10年の旅を描いています。何しろ、戦勝国に対してもトロイ国支持の神々から呪いがかけられましたから、オデュッセウスも帰国するために10年の年月を要し、部下をすべて失ってしまうなどの苦難を強いられたのでした。そのオデュッセウスの物語も古今の文化芸術の至るところに散りばめられておりますね。ちなみに、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」という映画をご存じですか?原題は「スペース・オデュッセイ」です。オデュッセイという言葉そのものが「長い長い旅」を表す言葉になっているのですね。

さて、今から始まるこの物語はそのオデュッセウス苦難の旅の終盤の小さな1エピソードを切り取ったものなのですよ。
ほら、波の音が聞こえますね。ほら、風の音も聞こえますね。

●遥かなる歴史の浜辺(気づくと浪打際で記憶を失っている)(コロス的合唱)―1

波の音が聞こえる
繰り返す歴史の鼓動
地球の脈動

風の音が聞こえる
繰り返す歴史の溜息
宇宙の呼吸

ああ、私とは誰であったのだろうか
命とは何であるのか
人とはどこからきて、どこへ向かって行くのか

ああ、歴史とは何であったのだろうか
時間とは何であるのか
過去はどこへ消え、時とはどこへ向かって行くのか

波の音が聞こえる
繰り返し私の耳元で囁く声
詩人が紡ぐ太古の響き

風の音が聞こえる
繰り返し私の胸を撫でる指先
詩人が奏でる竪琴の音

ああ、私は何を成し遂げたのか
人とは何をなすものなのか
戦いとは
勝者とは

長かったトロイ戦争が終わって、誰しもが戦争に疲弊し、誰しもが戦争が何をもたらし何を奪ったかを察知してから、さらに数年が経っていました。
ギリシャ側についていた神の一人アテネは、自身と同じように叡智を武器にしたギリシャの英雄オデュセウスを贔屓にしており、彼が様々な苦難に阻まれなかなか故郷に帰り着けないことを心配していました。そもそもトロイを支持した神々から最後の呪いがかけられていたのですが、帰国の旅の途上、海神ポセイドンの息子でもある怪物キュクロプスを退治したことで、ますますそのポセイドンからの恨みを買っていたのでした。オデュセウスは、たびたびの嵐に出会いながらも、今、命からがらある島の岸辺に辿り着いていたのでした。肩から血を流し、記憶を失ってしまうほど精魂尽き果て、泥だらけになりながら河口から歩き、森の中で倒れておりました。そのままではそこで死んでしまうところでしたが、それをこの国の王の娘ナウシカアが見つけることになります。
いや、正確に言うと、命尽きかけているオデュッセウスのために、女神アテネはこの国の王女ナウシカアが彼を発見するように仕向けたのです。
「ナウシカアよ、お前は明日、お前の使命を果たすことになるでしょう」
「私の使命?」
「お前は運命の男の人と出会うのです」
「私が、私の運命の人、馬鹿な。私は運命など信じない」
「お前は自分でも驚くような気持ちを抱くことになります」
「いったい何のこと?私は父母の所有物ではない。神の所有物でもない。私は何者にも束縛されたくない。私は私。誰のものにもなりたくはない、ましてや政治のための結婚などしたくもないのです。」

当時、ナウシカアは年ごろの娘。しかし男勝りな性格で、結婚には興味がないとばかりに幾たびもの婚約を断り続け、父母とも、このままでは結婚を断った国から恨まれ戦争の対象になるかもしれないと気に病んでおりました。しかし、ナウシカアはそんなこと全く意に介さず、女友達や部下の女官を従え、森に出かけては少年のような遊びに夢中で、奔放に振る舞っていたのです。

オデュセウスを助けたいアテネはナウシカアが靡こうとしないので、今度は友の姿に化け、まどろんでいる彼女の夢枕に立ちます。
「ナウシカア、あなたの母はどうしてこんなにやんちゃな娘をお産みになられたのかしらねえ。でも、お陰で私たちはあなたと遊べて楽しいのよ。夜が明けたらすぐに弟たちの着物の洗濯に出かるということにして、私と森に遊びに出かけましょう」
ナウシカアは目が覚めると父親の王に言いました。
「お父さま、弟たちの着物を洗いに河に行きたいの。だから、馬車を用意してくださいね」
王は言いました。
「娘よ、それならば行くがよい。すぐに馬車を用意させよう」
母は、珍しく娘らしいことを言うナウシカアに微笑み、食物とぶどう酒、水浴した後に塗るオリーブ油もナウシカアに持たせました。女官たちや友人たちに声をかけ、ともに森に出発したナウシカアは、そこで遊んでいるうちにオデュセウスを発見することになるのです。

ナウシカア一行は美しい流れの河につきました。女中のひとりは馬を馬車から放つと、水辺の新鮮な草を食べさせました。また、他の女中たちは洗濯物を河に運び、足で踏んで洗います。きれいになった洗濯物は、水辺の大きな石の上に広げ、その後洗濯物が乾くまで、ナウシカアと女友達は女中たちとともに水浴し、オリーブ油を体に塗り、食事を取りました。
食事が済むと、ナウシカアたちはオリーブの枝を持って歌いながら毬遊びを始めました。ここで、女神アテネは思いつきました。
ナウシカアの蹴った毬を河の中に落とさせました。女たちは大きな声をあげました。その声で、眠っているオデュッセウスは目を覚まします。

「なにやら、若い女たちの声がする。ここはどこだ、そして私は一体何をどうしているのだ、波にさらわれそうになったところまでは覚えているが…」
そう思ったオデュッセウスですが、命からがら女たちの前に進み出ました。その姿は海水に浸かっていたために見るも恐ろしい姿で、女たちはみんな怪物が現れたと思い、急いで馬車の陰に隠れましたが、ナウシカアだけは逃げませんでした。それもそのはず、女神アテネが王女に勇気を吹き込んでいたからです。

*あなたに勇気を(あなたには使命があるのです、アテナより)伴奏の中での台詞

「ナウシカアよ、勇敢な娘よ
その鎧の内側にあるお前の本当の心を私は知っています
お前には意志がある
果てしなく広がる空のように凛々しい心が
しかし、同時に役割がある
それはお前にとっては試練となろう

ナウシカアよ 
凛々しい娘よ
ナウシカアよ
やさしい娘よ
お前にオリーブの枝を与えよう
勇者を救うのだ」

一人だけ逃げず、すっくと立っているナウシカアにオデュッセウスは語りかけました。
「あなたは人間ですか。それとも神でしょうか。女神アルテミスとも見まちがうほどの美しさ。私は、かつてこのように美しい方を見たことがありません。しかしながら私は長く波にさらされた挙句、多くの記憶を失っております。どうかわたしを憐れんでください。私に食べ物をお与えいただけないでしょうか。」
ナウシカアは怪物と見えたその男がよく見ると高貴な雰囲気を纏っていることを察知しました。
「お前は一体、何者で、どうした経緯でこの島にやってきたのか?」
ナウシカアは毅然とした声で言いました。
「私は海で遭難し、やっとのことでこの岸辺にたどり着いたようです。どのような神が、私をこの島に打ち上げたのかもわかりません。私はあまりのことにしばらくの記憶がありません。名前も素性も思い出せないのです。」
「分かりました、さあ、水浴をし、油を塗って、これに着替えて私の城へ来なさい。ちょうど持ってきた弟たちの着物が役に立ちました。」
ナウシカアはそう言いながら直観的に、この方がわたしの国に住むことになったら、どんなに良いだろうと考えました。そしてそのようなことを考えている自分が不思議でなりませんでした。それでも、ナウシカアは自身の気持ちを見せないように振る舞いました。
ナウシカアは、オデュッセウスに答えました。
「外国の人よ、お見受けするところ、あなたは素性の卑しい者とは異なります。恐らく気ままに人々を混乱に陥れるオリュンポスの神々の仕業でこの島に流れてきたのでしょう。私たちの国では、気の毒な人が救いを求められた時には必ず、手を差し伸べます。食事や着物に不自由はさせません。私はこの国の王の娘、ナウシカアです」
オデュッセウスは、海の潮の汚れを落とし、油を体に塗り、新しい衣服を着ました。すると、女たちの前には麗しい巻き毛を垂らす肩幅の広い立派な男性の姿が現れました。その美しく魅力に富んだ姿は輝くばかりです。

その姿を眺めたナウシカアはうっとりして言います。
「みんな、この方がこの国に来たのは、オリュンポスの神々の意志があってのことに違いありません。さっきまではみすぼらしく見えたのに、今は英雄のようです。さあ、お前たち、食べ物と飲み物をおあげ」
何日も食べ物を口にしていなかったオデュッセウスは、女官から差し出された水や食べ物を貪るように飲み食いしました。
食べ終えるのを見とどけると、ナウシカアは馬車に乗り言いました。
「さあ異国の人よ、父の屋敷に連れて行って差しあげます」

屋敷の広間に入ると、オデュッセウスは驚く周りの人々を通り越して、真っ先に王と妃の近くまで来て跪き、すばやく願い出ました。
「神のごとき王、そしてお妃様、あなたに助けを求めにやってきました。私はどこから来たのか分かりません、多くの苦難を経たと見え、記憶の大半を失ったまま私は漂流してこの国につきました。私の故国がどこであるか、私の素性が何であるか、今の私にはとんと思い出せません。しかし、こんな私ですが、他にどうしようもなく、お救いいただけることを願い出るばかりです」
オデュッセウスは詩人のように朗々と述べました。

その様子から、何とも言えない高貴なものを感じた妃が長老に目を向けると。長老は王と妃に進言しました。
「王よ、客人を跪かせたままにするのは、我が国の礼に背きましょう。夕食を用意させ、もてなすようお取り計らいください」

王はオデュッセウスの手を取り立ち上がらせると。隣の席にオデュッセウスを座らせました。
「みな、聞いてほしい。この者を客人としてもてなそう。この者の記憶が蘇って来たならば、いかに遠方であろうと客人を故国に帰す手立てを考えようではないか」
王の言葉に屋敷にいた有力者はみな同意しました。

妃はオデュッセウスの着物が娘ナウシカアが今朝川に持参したものだと気づいて、話しかけました。
「客人よ、漂流してこの国についたと言われたが、その着物はどうされたのですか」

オデュッセウスはここに来るまでにナウシカアに救われたことを話して聞かせました。
妃は、そのとき王室の柱の陰に隠れながら一部始終を聞いているナウシカアのことを見つけていました。ナウシカアはオデゥッセウスの話に耳を傾けていたのです。恐らくこの客人のことを気に入ったに違いないと妃は察知していたのです。

翌日、外国からの客人をもてなす宴が催されました。
オデュッセウスはよほど激しい疲労と恐怖に見舞われ、記憶を取り戻せませんでした。しかしながら、この得体のしれない外国人のことを王と妃は丁重に取り扱いました。そこにはこの国での外国の客人に対するもてなしの伝統に加え、何か高貴な輝きを感じたのと、男性に全く興味を持たなかったナウシカアが、恐らく彼を好意的に思っていることを感じとっていたからでもありました。
宴会では大臣たちがオデュッセウスと語りました。
「外国の方、何か記憶のかけらでも持っておられぬか、故国が分かれば我が国の船は一流の技術で作られているので、あなたを無事に故国に送り届けることが出来ますが」

オデュッセウスは、霧が立ち込めたようになっている記憶のうち近い記憶を紐解くことに専念していました。
「島にいた、カリュプソー」
と語りました。
「確か、私はカリュプソの島に長く滞在していたように感じるのです。いや、その前に私は部下の全員を失いました。私たちはある島に辿り着いたのです。この島では太陽神ヘリオスが家畜を飼育しており家畜には手を出すなと忠告されていたにも関わらず、あまりにも腹を空かせた部下の一人がヘリオスの家畜に手を出してしまい、それに怒り狂ったヘリオスがゼウスに船を難破させるように頼んだため船は裂け、船員たちは海に投げ出され、私はこの時も大波に流されたのです。
私は、岩にしがみついていたように思います。獲物を喰らう怪物によって船は丸呑みにされ、部下は全員死んだのです。私は同じように漂流してカリュプソ―の島に滞在することになったように思います。残念ながらまだ断片的な記憶が蘇ってくるだけなのですが」
オデュッセウスの語りが実に真に迫るような見事さだったので、周囲にいる者たちは皆その話に引き込まれていきました。王も妃も、そして少し距離をおいて聞き耳を立てているナウシカアにしてもそうでした。
「どうやらあなた様は大冒険をしてこられたらしい」

●長き船旅~オデュッセウスの唄(混声合唱)―2

トゥライライ ライライライ
人は誰でも旅に出る
人生という名の冒険の旅に
海原越え
飛沫を上げて
水平の彼方に向かう旅に

人よ、帆を上げるが良い
波の向こうを見つめながら
まだ見ぬ光に指をさし
そこから聞こえてくる不思議なざわめきに耳を傾け

そうさ、悠かむかし、人は波の中から生まれた
繰返し心の奥から聞こえてくる音
繰返し瞳の奥に映し出される光景
それを確かめるのがこの旅なのさ

トゥライライ ライライライ
人は誰でも船に乗る
命という名の大きな船に
岩礁を越え
風を切って
水平の彼方に向かう船に

人よ、声を上げるが良い
風の向こうを見つめながら
まだ見ぬ光に指をさし
そこから聞こえてくる不思議な音楽に心を傾け

そうさ、悠かむかし、人は風と対話してきた
風の中には懐かしい言葉がある
風の向こうには煌めく未来がある
それを確かめることを冒険と言うのさ

壮年でもあり外国人のオデュッセウスの噂が国中に広まりと、それをあまり面白く思わない若者たちが現れ、不満気に言いました。
「なんでも外国からきた男のほら話に王宮では持ち切りだそうだ」
「王宮の財産を分捕って逃げてしまうんじゃないか」
「何だか胡散臭そうな話でもあるなあ、大丈夫なのか」
「王と妃は随分入れ込んでいるというじゃないか」
「王子、王宮を乗っ取られはしまいか」

そのような、若者のうち王の息子に当たる王子とも中の良い友人らは、からかい半分の気持ちを込めて、競技会を主宰することを考えました。言葉巧みに冒険譚を話す壮年の外国人が、この国の若者たちの力強い競技会に怯む様子を見たかったのです。場合によっては競技会に出場させ、中途半端なペテン師をこらしめてしまおうという気持ちを持った者もおりました。王子は、そのような仲間の提案を受け、「歓迎競技会の開催」を王に提案することになりました。

「客人も戸外に出て、あらゆる競技をご覧いただきたい。場合によっては参加されても構いませんよ。客人が帰られてからも、我らの国の若者が運動に優れていることを各地で語ってくださるでしょうから」
少し斜に構えた若者たちによって主宰された競技会では、国中の力自慢の若者たちによる徒競走、レスリング、跳躍、円盤投、健闘の競技が行われました。すると、誰かが提案しました。
「外国の客人に競技の心得があるか聞いてみようではないか。漂流と歳のせいでやつれてしまってはいるが、お見受けしたところ、並外れた体つきをしている」
仲間が賛成すると、一人がオデュッセウスに話しかけます。
「いかがです、客人、何か競技の心得がありましたら、競技に参加してみては。私どもと一緒に競技をすると憂さ晴らしにでもなるのでは」
「何か思い出すことがあるかもしれませんし」
若者たちの言葉にオデュッセウスは言いました。
「今の私の心は心労のあまりで、競技どころではない」
すると、一人が挑発するような口ぶりで言いました。
「お客人、そんなことだろうと思っておりましたよ。あなたはきっと外国から金品を安くで輸入する商人か何かだったのでしょうねえ。とても競技をするような柄ではないので」

オデュッセウスはその言葉にむっとすると無言で大型の円盤を取り上げ、力一杯遠くへ投げました。

そして、オデュッセウスは立ち上がると朗々と語りました。
「誰でもいいから、投げてみなさい。私を超えることができれば、さらにそれを超えて投げてみせよう。ちなみに恐らく、今の円盤は私の故国では赤ん坊が投げるような小さな円盤だったので、勘が狂った。もっと大きな円盤を持ってきてくれさえしたら、私はウォーミングアップをしてから本格的に投げてやるぞ、競争でも、拳闘でも、相撲でもなんでも良い。誰か私に挑戦してみなさい。私が何をしてきたか、今の私には思い出せないことが多いのだが、競技の仕方は、身体が覚えているようなのだよ」

若者たちは最初は唖然として沈黙しました。
オデュッセウスが投げた円盤は彼らの倍以上の距離だったのです。

次にオデュッセウスは次に大きな弓を奪い取ると、天に向かって引きました。矢は轟音を上げて遥かの地に落下しました。その後、肉体の勘を取り戻すように、槍や玉を投げまくりました。それらはすべて若者たちの距離の倍以上の遥か彼方に落下したのでした。

●競技会(誰にも負けない、私はいつも何かと戦ってきた)(男声合唱)―3

飛べよ、飛べ
投げろよ、投げろ
組め、射貫け、戦え

この太陽のもとで
この蒼空のもとで
胸躍り、心ときめく時間(とき)を肉体に刻むのだ

感じ合おう 鼓動を
分かち合おう 命を
生きているから 我らは飛ぶ
生きているから 我らは叫ぶ
命の限り
声の限りに

走れよ、走れ
踊れよ、踊れ
狙え、転がれ、ぶち当たれ

この大地の上で
この土とともに
血が巡り、瞳煌めく時間(とき)を身体に沁み込ませるのだ

感じ合おう 呼吸を
分かちお合おう 気持ちを
生きているから 我らは走る
生きているから 我らは
生きているから 笑う
足の裏から
心の底から

さあ、命の祭りが始まる

オデュッセウスの余りもの強さに若者たちは驚愕しました。そして、拍手と唸り声が起きました。記憶を失っていたオデュッセウスはたちまちのうちに若者からも信頼と賛嘆を得て手厚く処遇されました。

「驚くべき強さと力だ」
「きっとどこかの国の国王なのではないか」
「名のある英雄の一人なのではないか」
「何と言うことだろう、このような方と巡り会えて嬉しい」
等々。
その後は若者たちの興味と感心と尊敬の念からの要求に応じて、チェスをしてもカードをしても、オデュッセウスは無類の強さを発揮しました。

「手順は覚えているのでね、このようなものは習慣性のものだろうか」
オデュッセウスは言いました。
若者たちは尊敬と憧れのまなざしを送りながら矢継ぎ早にたくさん質問をしました。
もちろん、オデュッセウスの記憶はまだ断片的で、何を語れるでもなかったのですが、立ち振る舞いのすべてが気品と威厳に満ち、恐らく只者ではないのだろうな、という雰囲気が立ち込めておりました。

ナウシカアはそんなオデュッセウスのことを遠くから見つめているのでした。

●あなたは誰なの(ナウシカアの歌、女声合唱)―4

ねえ、教えて
あなたのことを、あなたの物語を
あなたが見つめて来たもの
あなたが聞いてきたもの
あなたがささやいてきた言葉のすべてを

私は風に聞こう
私は水に問おう
あなたが生きてきた物語を
あなたの瞳は星空の雲海を映している
あなたの胸には悲しみの深い渓谷がある
それは、まるで海風に耐えた絶海の島のように
閉ざされ、謎めいている

ねえ、教えて
あなたのことを、あなたの物語を
あなたが赦してきたもの
あなたが戦ってきたもの
あなたが歌ってきた言葉のすべてを

私は雲に聞こう
私は空に問おう
あなたが生きてきた物語を
あなたの耳には星座が奏でるハープの音が聞こえている
あなたの首にはオリーブの葉ががそよいでいる
それは、まるで古代の文明の廃墟のように
晒され、忘れられている

ねえ、教えて
あなたはどこを見ているの
あなたの瞳に私は映っているの
あなたは何を聞いているの
あなたの耳に私の声は届いているの

ナウシカアは、もの思いにふけることが多くなっていました。
ふと溜息をついてはオデュッセウスの振る舞いに見とれている自分に気づいていました。
また、若者たちが、寄ってたかってオデュッセウスのもとに集まってきたて議論をしたがったときも、彼を城の裏に位置する山の頂に招き、海と湾を見下ろす絶景を案内しながら話を聞きたがったときも、何となく付いて行っては、やや遠巻き話を聞いているのでした。
そうしていることがとても当たり前のようにも感じられ、そうやってずっと瞳の中でオデュッセウスを捉えていることがとても心地良くも思いました。

オデュッセウスの記憶はそれから少しずつ蘇ってくるのでした。
オデュッセウスは興味のある若者たちや、大臣たち、一般の庶民を集めて、蘇ってきた記憶の物語を少しずつ話し始めました。
もちろんそのうちいくつかは多少あいまいな記憶であることを理由に大げさに語ることはありましたが、蘇ってきた冒険の旅を語ることは、さらに別の記憶を呼び戻すような気がするのでした。

「妖鳥のセイレーンを知っているだろうか」
オデュッセウスは語りました。
セイレーンは美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難・難破させる怪鳥でした。オデュッセウスはその前に一行が囚われていた魔女キルケーの忠告に従ってセイレーンの難を逃れたのでした。
「私は、確か、自分の身体をマストに縛り付け、部下や船員には蝋で耳栓をさせたのだ。私は一人セイレーンの歌が聞こえる状態になった。マストに縛られながらも私が暴れると私はセイレーンのもとに行きたいと思っている状態なので、船員たちは私をますます強く縛り、船を進めた。そして、私が落ち着くと安全であると判断した。歌を聞かせたにも関わらず死なずに生き残った人間が現れた時がセイレーンが死ぬときだったので、私が生き延びたことを知ったセイレーンは海に身を投じ岩礁の一部になったんだよ」

●セイレーンの歌(不思議な妖鳥との掛け合い)―5

気が付けばいつの間にか世界は音に満ちている
何が必要な音なのか
私たちは見極めなければならない

気が付けば世界には言葉が氾濫している
何が大切な言葉なのか
私たちは選ばなければならない

しかし
私たちはいつの間にか迷路に迷い込み
喧噪の中でもがいているのだ

「聞け、悩め、引き込まれよ、
私の声を聞け、私に従え、疲れよ、唸れ」(セイレーン)

目を閉じると、新しい風景が見えてくる
愛しい人の顔も想い出も
夢に見た物語も

耳を塞ぐと、新しい音楽が聞こえてくる
美しい言葉も歌声も
竪琴の音色も

私たちは内なる声を持っている
私たちは内なる眼差しを持っている

悪意や誘惑から逃れ
人生の迷路から抜け出出すのだ

胸の奥に問え!
荒れ狂う波間を乗り越えるのだ

10

「セイレーンの話は聞いたことがあるが、そのような恐ろしい怪物だったのですねえ」
「あなた様が打ち負かしたとは」
「しかも相当な知恵者だ」
「それにしても幾多の困難を乗り超えて来られた様子だ」

オデュッセウスの話は真に迫っていただけでなく、語り口や身のこなしが優雅で洗練されているので、胡散臭いと思う者は誰もおりませんでした。
それよりも、誰もがこの外国人の珍しい話やその語り口を好ましく思い、このような土地に流れついたことが神のいたずらだとしたら、気まぐれな神もたまには良いことをするものだと、と言い合っておりました。

11

オデュッセウスは常に若者たちに取り囲まれておりました。そして、蘇ってくる記憶の断片を語っていたのです。

「ああ、これは恐らく旅の初めのころ冒険だ」
オデュッセウスは言いました。
「一つ目の巨人キュクロブスの島へたどり着いたんだ。私の旅の中でも、恐らく最も困難な局面だった」
オデュッセウスの記憶は新しいところから順番に戻っていきましたが、その後は単発的にいろんな時期の体験談が蘇ってくるようでした。オデュッセウスは旅の最初のほうの冒険を語り始めました。周囲の者は身を乗り出して聞き入りました。以前は遠巻きに聞き耳を立てていたナウシカアも、今となっては物語を聞く周囲の者たちを制するように、自らオデュセウスのそばに座ってその冒険譚を聞くようになってきていました。

「キュクロブスの島は自然の食物やたくさんの山羊、羊に恵まれていたんだ。だから、キュクロプス一族は働きもしない。最初、私は12人の部下を連れて山上の洞窟探検に出た。洞窟には、主の姿はないが、豊富なチーズがあり、子山羊と子羊がたくさん飼われていたので、部下たちがこれを食べていると、主の一つ目の巨人が帰ってきた。私たちはその巨大な姿に驚きとっさに物影に隠れた。そいつは薪を洞窟に放り込むと、山羊と羊を洞窟の中にいれて大岩で入り口に閉じたので、私たちは外に出られなくなったのだ。翌日戻ってきた巨人は山羊と羊の乳をしぼり、火おこしをした。洞窟の中が明るくなったので、私らは気づかれた」
奴は言った
「見かけぬ奴らだな、何者だ、お前らの船はどこにある?皆食ってやる」
私は船を食われては出帆出来ないと感じ、船は難破したと答えたのだが、翌日からそこにいた部下たちが2人ずつ食べられていくことになった。私は持っていた葡萄酒を巨人に飲ませて機嫌を取った。これに気をよくした巨人は、私の名前を尋ねたので私は「ウーティス」(「誰でもない」)と名乗ったのだ。そして彼が酔いつぶれて眠り込んだところ、私は部下たちと協力して巨人の眼を潰した。巨人は大きな悲鳴を上げ、それを聞いた仲間の巨人たちが集まってきたが、誰にやられたと聞かれときに「ウーティス(誰でもない)」と答えたので、他の巨人たちは帰ってしまったんだ。その後、私たちは羊の腹に部下たちを張り付けて走らせやっとの思いでその洞窟を脱出し、島から離れたのだよ」

オデュッセウスはまたも身振り手振りを交えて一つ目の巨人の島からの脱出物語を語りました。
ちなみにこの怪物はポセイドンを父に持っていたので、以後海神のポセイドンがオデュッセウスの航海を何度も妨害することの原因にもなったのでした。

●キュクロプスとの戦いの歌(魔物と知性の戦い)合唱―6

「ああ、力を見せつけるときが来たようだ
俺は
クジラのように波を掻き分け
馬のように大地を蹴散らすことが出来る
誰よりも早く
誰よりも強く 
ポセイドンの血が騒ぐ」

「人は
大地に種を撒くだろう
人は
海に網を投げるだろう
力を合わせて
知恵を合わせて
私の名前は誰でもない
歴史を支える名もない民なのだ」

「火を付けろ
水を撒け
力づくで奪い取れ」

「温めるために火を使い
育てるために水を遣る
人は叡智を集めて困難を乗り換えていく」

「俺は戦争のために馬を飼いならす
 馬は駆け、蹴散らし、走り去る」

「人はオリーブとともにいる
オリーブは闇を照らす光となり、
痛みを和らげ
香り高くい果実となる
人はオリーブとともに祈るのだ

12

「あなた様も只者ではありますまい」
一人が言いましたが、オデュッセウスの記憶は全てを思い出すには至らず、何かを辿るように遠い目線をしていました。

そのようなオデュッセウスの態度に感じ入った王は、提言しました。
「客人よ、そなたのような立派な方には、その気があればこの国に留まっていただきたい。そして、娘ナウシカアを妻にもらっていただけたらどんなによかろう。屋敷も財産も与えよう。もちろん、そなたがそれを望まぬ限り、引き留めはすまい。」

オデュッセウスは少し微笑みながら言いました。
「王よ、私の命の恩人を妻に与えてくださるなんて、なんてありがたい話でしょうか?しかしながら私はどこの誰かも分からない旅の者、また恐らく壮年にさしかかっております。ナウシカア様はアルテミスのように美しい輝きを持つお方、たくさんの候補者がおられるでしょう。私にはもったいない話かと存じます」
と答えました。

13

その夜、毎日のように冒険譚を聞きに来ていたナウシカアを見つけるとオデュッセウスは語りました。
「私の冒険話は面白いかね」
「ええ、とっても」
「しかし、私はきっと私は何かの罰を受けていると感じるのだよ」
「罰?」
「恐らくそうだ、人生には一定の勝利があるとすると、それに見合うくらいの厳しい査定が下される。きっと私は力自慢で知恵自慢で、たくさんの勝利を手にしてきた。しかしその分、たくさんの苦難を与えられてきていたのではないか、そんな風に感じるのだ」

苦しみながらも、自らの人生のことを少しずつ回復させていくオデュッセウスを前にしてナウシカアは悩みました
「あの人はいったい誰なのだろう、いや、誰でもいい。これ以上のことを思い出さないでほしい。きっとあの人はどこかの国の王か英雄ではないか、あの年齢であれば妻がいるに違いないではないか」
そんなふうに思いながら、心の底で
「あの人が私の夫であると言えたならば、どんなに良いだろうか」
と想像している自分のことを実感するのでした。
「私はどうしてしまったのだろうか、女神に気持ちをもてあそばれているのだろうか」

オデュッセウスはナウシカアに語りました。
「私の故郷は、恐らくギリシャの中の小さな国だ。私はあのトロイ戦争に出征したのかもしれない。そして、多くの戦果を挙げたようにも思う。戦争というものは「正義」のために行うものであろう。しかし、あの10年の戦争では何が正義か分からなくなっていった。アキレウスは最初から戦いなどしたくなかった。何度も陣営から離脱したものだ。しかし幼い頃から仲良くしていたあの優しいパトロクロスがアキレウスの代わりにヘクトールに殺された。親友が殺されたことでアキレウスは戦地に戻り、ヘクトールに対して一騎打ちをして残虐なまでの報復をした。しかし、ヘクトールには優しく美しい妻のアンドロマケと幼い子がいたのだ。彼女が祈っても運命に抗えず、ヘクトールはアキレウスに打たれ、そのアキレウスはヘクトールの弟のパリスに討たれる。これらのことは、人間の意志だけではなく、運命の神たちの気まぐれにもと遊ばれているのはないか。私は徐々に思い出して来たのだ。恐らく私はあのトロイ戦争で戦果を挙げた武将であった。勝ったことで、次には、私に苦難と試練を与えられているに違いないのだ」

●鏡の向こうには負けるが勝ち、勝ったが悲しい、その罰を受けている)
オデュッセウスのうた(男声合唱、もしくはソロ)―7(つづく)

鏡の向こうにいる私
私の姿を写した鏡
それは本当の私なのか、もう一人の私なのか
それは私の外見を模しているのか、私の内面を暴き出しているのか

世界には二つの扉がある
陽の昇る水平線、冥王ハデスへの扉
空を写す海と、海を写す空
世界は合わせ鏡で出来ている
勝者がいれば敗者がいる
踏みつけた者が英雄ならば踏みつけられた死者がいるのだ

鏡に映る私の姿
私を囚われの身とする鏡
鏡の向こうのもう一人の私が
もう一人の私が現れる
過去の私が今の私に語り掛けてくる

14

ナウシカアは複雑な気持ちでいっぱいになりました。
なんとかこの凛々しく勇敢な男がこれ以上の記憶を取り戻さないでほしい、と思う反面、全てが明らかになって穏やかな気持ちで故郷に戻ってほしいとも思うのでした。

ナウシカアは言いました
「そのようなお考えももっともです、しかし焦ったり嘆いたりしてはなりません。恐らく、抗えない何かの中で私たちは生きているのですから」

●記憶がよみがえる思い出したい、思い出さないで、思い出したくない)合唱―7(つづき)

鏡の向こうの私が語る
記憶の蕾が開かれる
私たちは記憶で出来ている
歴史を生きることは記憶を積み重ねていくこと
過去が、歴史が、絶え間ない今を作り出しているように
私たちは時間を生きている
過去から今へ
今は未来へ

そして、いつも船は水平線を目指す


(台詞を被せる)
あなたの瞳に私は映っているのでしょうか
あなたの耳に私の声は届いているのでしょうか

(…思い出の花が開くと
あなたの記憶が蘇る。そうしたら、私は…)

15

宮殿では祝いごとがあり、そのために大きな宴が執り行われていました。
客人であるオデュッセウスの周囲に人だかりが出来、皆が彼の前で議論をしたがり、彼の意見を求めたがりました。

当時、大きな宴には吟遊詩人が呼ばれるのが常でした。詩人たちは高い地位と立場を持ち、呼ばれた先では、様々な歴史物語や伝説伝承から、昨今の政治、トラブル、偉業についてまで、高らかに歌い上げました。ことに最近終結したトロイ戦争については、たくさんの情報を集め合い、様々な名場面や裏話を含む多くの物語を弾き語っており、万人の関心と評判を呼んでおりました

「おお、楽人デモドコス、名うての吟遊詩人がお出ましじゃ」

食事の場で、王は楽人デモドコスにトロイの物語を所望します。
「前に歌ったトロイの物語はまことにみごとであった。戦いを見ていたかのような生々しさ。イーリオスの城壁の神託を歌ってくれぬか」

*りんごから木馬へ~コロス(吟遊詩人による)伴奏の中での朗誦

おお、
高く聳えるイーリオスの城よ
その屈強な城門よ
託された呪い
読み解かれた神託
長き戦いの中
英雄たちを弔いながら
最後の巻物が開かれる

さあ、木を伐り出せイーデーの山から
さあ、組み立てよ巨大な木馬を

長き戦いはようやく幕を下ろすだろう
油断が緊張を上回ったとき
木馬が城壁を破ったとき
海から大蛇が現れたとき

16

王の側近たちが言いました。
「おお、いよいよ木馬の場面、エペイオスがアテネの助けをかりて作りオデュッセウスが将兵を腹に潜ませトロイアが陥落した話を歌ってはくれぬか」

楽人デモドコスは頷きました。

数多の英雄たちが討ち死にし、優勢であったにも拘わらず陥落しないトロイの城壁を前にギリシャ人たちが疲弊していく中、知将オデュッセウスがたくさんの神託の中から最後の神託を読み解く場面は、このトロイア戦争の中でも人気の場面でもありました。

王からも声がかかりました。
「木馬の歌を、トロイの木馬の歌を」

●トロイの木馬の歌(吟遊詩人による)合唱―8

繰り返す波の音を聞きながら
木馬の歌を歌おう
悲しい目をした木馬の歌を
果実が解いた争いの糸は
木馬によって結ばれる
木馬は海を見つめている
たてがみを靡かせ

繰り返す星座の動きを見つめながら
木馬の歌を歌おう
歴史に耳をそばだてる木馬の歌を
木馬は勇者を飲み込んで
城の中へと引き入れた
木馬は夜を見つめている
いななきもせず

やがて今は過去になり
過去は長い歴史となる
木馬の歌を歌おう
悲しい目をした木馬の歌を

歴史は必然
必然は意志
意志はすなわち木の如く
木はすなわち時とともに
りんごで起こりし事は馬で終わるべし

ああ、争いとは何たるか
男は丸太のように荒れ地に倒れ
女は城壁の向こうから涙を流す

木馬は沈黙したまま海を見る

17

歌が進むにつれて、オデュッセウスは打ちしおれ、涙が頬を濡らしました。
そんなオデュッセウスに気づいた王は歌をやめさせるとオデュッセウスに問います。

「今の歌は、万人を喜ばせることはなかったようだ。食事をとり、デモドコスが歌い始めてから今に至るまで、客人は悲しげな呻きを漏らすことをやめない。どうしたのだ客人よ、思い出したことがあれば隠すことなく教えてもらいたい。トロイアの語りを聞いて、涙を流し密かに嘆いていたのにはいかなる理由があってのことなのか」

ついに、オデュッセウスは自分の正体を思い出しました。

「ああ、王よ、私は思い出したのです。私自身がかの物語の主人公であると、私自身が木馬の建設を指揮した大将であったと、私自身がこのトロイの城を陥落させた中心人物であったと、そして王よ、私は勝利の報いを受ける形で帰国の途上、様々な苦難に会い部下を全員亡くし、記憶も失ってこの国に流れ着いたのです。
ああ、私はイタケの王、オデュッセウスです。」

周囲はどよめきました。
しかし、他方、その身から立ち上る高貴さ、並外れた力、話しっぷりや垣間見える叡智からある種の存在感と説得力があり、周囲は疑うことなく、むしろ大きく納得をしたのです。
大英雄のオデュッセウスにしてトロイの物語を聞いては涙を流さずにいられなかったことも、その後の想像を絶する苦労も含めて多くの同情と共感を得ました。

18

「ギリシャは勝ったが、多くの仲間が死んだ。仮に負けたが生き延びたという者と比べてどちらが幸せと言えるのだろうか。名誉を得たが戦死した多くの英雄たちは、名誉に拘りさえしなければ、生き延びたかもしれない。どちらが尊いのか、私には計り知れない」

オデュッセウスは溜息をつきながら大きな身振りで語りました。

彼の人がオデュッセウスと知った時、ナウシカアは思わず顔を伏せました。別れの予感に心が引き裂かれる気持ちがしたのです。

王は、一段と立派な姿となったように感じたオデュッセウスに近寄りました。
「あなた様が、あの名に高い大英雄のオデュッセウスだということが分かり、驚嘆いたしました。もしもあなたがこのままとどまり、ナウシカアーを妻としてくれればよいのですが、あなたは、やはり故国を目指されるのでしょうか」
ナウシカアーは俯いたままでおりました。
オデュッセウスはイタケーの王であり、イタケーではこの20年にわたる歳月を妻のペネロペ―が待っている状態です。
オデュッセウスは十分に間合いを取ったのちに答えました

「イタケ―は小国ではありますが、私の帰りを待つ妻と息子がおります。私はもっと早くにイタケ―の地に帰る予定でしたが、こうやって苦難の旅をしております。これまでも、彼の地に踏みとどまることを考えたことがあったように思いますが、そのたびに、故郷の姿と故郷に残して来た者たちの姿が浮かび故国への航海を続けてきたのです。
命の恩人であるナウシカア―と、ずっとよくしていただいた王と妃には大変な恩義を感じますが、どうぞ、私をイタケ―に向かわせていただけないでしょうか?」

王は頷きました。
「おっしゃる通り、分かりました。私どもは海洋民族、自慢の船をあなたに進呈し、万全の準備をして送り出すことが出来ると思います。どうぞ心配することなく、旅の支度をしてください」
王も妃も、ナウシカアーの心境を察知すると少し辛くはありましたが、この大英雄を自国に留め置く理由には乏しいことくらい理解をしておりました。

騒然とした宴の後で、ナウシカアは一人でオデュッセウスの部屋に向かいました。

19

「大英雄のオデュッセウス様
私はあなたが記憶を取り戻されることを心の底で恐れていました。
あなたが私のもとを去ることになられるからです。
結果は分かっております。
ただ、私から一言伝えさせてください。
私ではだめなのでしょうか?」

ナウシカアにとって一世一代とも言える台詞でした。

私ではだめなの?(ナウシカ独唱)―9(つづく)

愛しい人よ
あなたに空いた心の隙間
あなたに付いている傷
それを埋めるのは
それを塞ぐのは
私ではだめなのかしら

もしもあなたが全てを思い出したとしたら
あなたは私から遠ざかるのでしょうか

もしもあなたが全てを思い出さなかったとしたら
あなたは私のそばにいるのでしょうか

私は、アーモンドの花の枝を折って
あなたに渡したい

でも
あなたはいつも別の空を見ているように感じる
私はそれを見つめることしかできないのかしら
あなたは波の音に誰かの歌を探しているように感じる
私はその歌を聴くことはできないのかしら
記憶の蕾が解かれると…
それは
あなたが生き返るとき
そして、
私は
私は死ぬのかしら

20

オデュッセウスはナウシカアを抱き寄せると噛んで含めるように言いました。

「ああ、私の命の恩人よ、そしてアルテミスのように美しい人よ。そのように言ってもらえることは私にとって大きな勇気を与える。しかし、私はやはりイタケ―に帰らねばならないのだよ。なぜならそこに私の故郷があり、そこに私を20年にわたって待つ人がいるからだよ」

ナウシカアは、月明りの差す窓際でその言葉を聞きながら細く小さな涙を流しました。

●私を忘れないで-決して忘れない(デュエット+混声合唱)―9(つづき)

月が照る
波が煌めく

この月明りは
明日は私の涙をきらめかせるでしょう
しかしまた、
この月明りはあなたの故郷をも照らし、あなたはそれを見上げるでしょう

この波は
明日には私の嘆きを慰める歌になるでしょう
しかしまた
この波はあなたの故郷まで届き、あなたは波に乗って帰るのでしょう

愛しい人よ
あなたとの出会いは私に涙と試練を与えた
しかし
愛しい人よ
私のことを忘れないで
私のことを思い出してほしい
波に願い、月に祈る私のことを

風が吹き
星が瞬く

この風は
明日は私の船を押してくれるのでしょう
そしてまた
この風はあなたの涙を乾かし、あなたの声を届けてくれるでしょう

この星は
明日は私の旅の目印となるのでしょう
そしてまた
この星はあなたを見つめ、あなたはそれを見上げるのでしょうか

愛しい人よ
あなたとの出会いは私の心に勇気と潤いを与えた
しかし
愛しい人よ
私は行かねばならない
私のことを思い出してほしい
風に願い、星に祈る私のことを

月も星も
私たちを見守ってくれているのだから
波も風も
私たちを結んでくれているのだから
いつまでも私たちの胸は温かい
いつまでも私たちの心は輝いている

21

それから、国を挙げてオデュッセウスを送り出す準備に取り掛かりました。
王は、次のような提案をしました。
「我が国の名だたる12人の領主よ、私を含めて13人で客人に贈り物をしようと思う。各自が上衣と肌着、黄金を持参されたい。そして、競技会で失礼なふるまいをした若者たちよ、武具を贈りなさい」

翌日の日の沈む頃には、オデュッセウスのもとに、銀や青銅の太刀、各種の飾り物、衣類や黄金の贈り物の山が出来上がりました。
王も妃も、自身の大切にしていた飾りをオデュッセウスに送ると、女中たちに湯浴みの準備をさせました。湯浴みの後、オデュッセウスが食事の場に向かうと、柱の陰から見ていたナウシカアは、オデュッセウスに別れを告げます。

「オデュッセウス様、ごきげんよう。国にお帰りになっても、いつか私を思い出してください」
その顔は、感にたえぬ面持ちでした。
「ナウシカア様、あなたは私に命の恩人です。無事に国に帰れましても、あなたを大切に思い出し、心の中であなたのことをお祈り申し上げます」

●遥かなる歴史の浜辺(コロス的合唱)(途中まで1と同様)

波の音が聞こえる
繰り返す歴史の鼓動
地球の脈動

風の音が聞こえる
繰り返す歴史の溜息
宇宙の呼吸

ああ、私とは誰であったのだろうか
命とは何であるのか
人とはどこからきて、どこへ向かって行くのか

ああ、歴史とは何であったのだろうか
時間とは何であるのか
過去はどこへ消え、時とはどこへ向かって行くのか

波の音が聞こえる
繰り返し私の耳元で囁く声
詩人が紡ぐ太古の響き

風の音が聞こえる
繰り返し私の胸を撫でる指先
詩人が奏でる竪琴の音

(ああ、私は何を成し遂げたのか
人とは何をなすものなのか
戦いとは…
勝者とは…)

==

ああ、人よ夢を見よ
ああ、人よひたすらに生きよ
翼持たぬ愚直さを
時を遡れぬ不自由を

ああ、人よ夢を見よ
ああ、人よひたすらに生きよ
叶わぬ思いが意志を育み
届かぬ気持ちが物語を編み出すのだ
人生という名の物語を
歴史と言う名の物語を
我らの胸を熱くする物語を

20

オデュッセウスの冒険は、この後大団円を迎えます。
20年ぶりに故郷のイタケ―へ戻り、すっかり乱れた国情の中、妻のペネロペ―を取り戻すまでの物語で幕を閉じることになります。

オデュッセウスに思いを寄せたナウシカアがその後どのような人生を送ったのかには誰の記述もありません。
風の音はナウシカアの歌を届けたでしょうか
波の音はその瞳の輝きを伝えたでしょうか。

長い長い歴史の中には、大きなロマンだけでなく、そっと息を潜ましている小さな無数の物語があるのでしょうね。

続きは皆さんの胸の奥に。







作曲:山下祐加   2022