ベートーヴェン名曲集

小学校時代のある日突然シューベルトが好きになった私は、一番好きな歌は「野ばら」であり、「ます」でありましたが、シューベルトが尊敬していた人としてベートーヴェンを理解していました。しかし、中学時代のある日、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読み、そのモデルたるベートーヴェンが好きになりました。
高校時代のある日、父の知人を介してロマン・ロラン全集を順番に借り、「魅せられたる魂」「ピエールとリュース」から「ベートーヴェンの生涯」に辿り着いた時、尊敬する人は?と問われたら「ベートーヴェン」と言おうと心に決めたものです。
実は、その延長線上で、合唱部のなかった高校2年生の冬に音楽の先生に誘われて「第九の一般公募団員」として、小林研一郎の指揮(ザ・シンフォニーホール)で「第九」を歌ったことが合唱の道に入る遠因となったということもあります。
そう、ベーム/ウィーン・フィルの超スローな「田園交響曲」を繰り返し聞き、高校卒業に際してはクラウディオ・アバドの第5番「運命交響曲」第2楽章を聞きながら、エピファニーのように<自分の人生は今まさに「第2楽章」に入った>と感じたことが、大学ではグリークラブに入部して指揮者をやろうとした遠因でもあったと思います。

その後、映画芸術を専攻していた大学時代のある日、ベートーヴェンが後期弦楽四重奏の楽譜の隙間に書き込んだ文言をジャン・リュック・ゴダールの映画の中で再発見し、芸術論ゼミの課題提供したり、ギドン・クレーメルとアルゲリッチのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聞きながら書道家の部屋で徹夜をするという青年時代を過ごしていました。ついでに当時、私の心の師匠となったアンドレイ・タルコフスキーのノスタルジアのクライマックスで重要なモチーフとして第九交響曲が用いられていたことは、私の芸術哲学的な理解と思考の転換点にもなりました。
背伸びしていた青春時代を終え、大人になってから、私の嗜好は重工長大なものからコンパクトな品の良いものへ、成長から微睡へと戻っていったようにも思い、今では「好きな作曲家はラヴェル」と言う可能性がありますが、それは作家におけるドストエフスキーと同じく、ベートーヴェンという存在が超越的に凄すぎて、もちろんそれは当たり前として、という前置きの後、自身の嗜好を説明するために使っているようにも思います。

さて、オンラインメッセージのため字数制限がないものですから、前置きが長くなりすぎました。
ベートーヴェン生誕250周年ということで、さぞかしベートーヴェンだらけになるであろうと見越した私は、別の団体で、昨年のうちにベートーヴェン生誕249周年と紹介しながらベートーヴェンの曲(合唱アレンジ)を演奏したりしておりました。
しかしながら、不意をつくコロナ禍によって合唱を取り巻く現場にとっては非常に辛い日々が続いています。年末になっても、なかなかベートーヴェンは聞かれないのでしょう。しかし、その厳しい状況下でも小さくとも明かりを灯し続けることも大事だと考えたとき、ベートーヴェンという作曲家は私たちを全身全霊で励ましてくれる作曲家です。

「ベートーヴェンにおいて芸術形式は生の内的実在のリズムと離れていない」
という言われ方をします。
つまり、その形式は表面的なものであり、「ソナタ形式云々」ということで語り尽くせるものではないということでしょう。
「もしも人がベートーヴェンを心理的に把握しなかったら人は決してベートーヴェンを理解しないだろう」とも言われます。
要するに、ベートーヴェンは音楽史云々を超越し、第一義的には「苦悩を全身に抱えながら、それを全力で音楽に表現した作曲家」だと言うことなのでしょう。

今回の演奏楽曲については、このような過剰な説明とは反比例するようなチャーミングな作品ばかりですが、それでも、原曲を繰り返し聞きながら思ったのは、これらの曲の内奥に秘められた万感の思いや苦悩、悲嘆、憧れ、希望、勇気、諦念、悔恨、ユーモア、…全身全霊で生きた人間の情感や思考でした。
2曲については、歌詞のないところにある種の軽い歌詞を付けるという不届きをしており、とてもベートーヴェンの内奥を探り切れない訳ですが、それでも、オリジナルの持つ深みや多様性、千原先生の粋で美しいアレンジを通して、演奏者や聴衆がベートーヴェンの音と戯れることが出来ればと思ってはおります。

不幸にして耳が聞こえなくなったベートーヴェンはこの世と決別すべく、ハイリゲンシュタットで遺書を書きました。
しかし、同時に自分自身に対して言いました。
「勇気を出せ。たとえ肉体にいかなる欠点があろうとも、わが魂はこれに打ち勝たなければならない。神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。」
そして、ベートーヴェンは、音楽そのものでそのことを200年後の私たちに伝えている訳です。