~木の音、昨日の音、ノートブック~木の記憶~

いつも木はそばにありました。カブトムシをとったクヌギの木、夏山に見上げた背の高い杉の木、部屋の窓をノックした花梨の木、…私が初めてメタファーとしての木を意識したのはアンドレイ・タルコフスキーの遺作をスクリーンで目にしたときかもしれません。少年と言葉と祈りという構図は、20歳の私に鮮烈な印象を残しました。そういえば「葡萄の樹」というネーミングをたいそう褒めてくれたのはあの大江健三郎氏でした。京都駅でお迎えし、今出川までのお送りするタクシーの間に、街路の樹木を眺め ながら合唱の話をさせていただいたことがあります。「合唱はいいねえ、耳を使って人の声を聴くでしょう、」と言っておられたことが忘れがたい思い出です。…アゲハが飛び立った棘だらけの山椒の木、たわわな実を実らせた枇杷の木、隣の家の庭からイチジクの木、うっすらと目を開けた寝室で光っていたクリスマスツリー、…私たちはたくさんの木の記憶とともに生きています。木と思うだけで、めくるめく記憶の迷路の中に迷い込んでしまうようですね。

さて、松本望さんの新曲とともにお祝いできるクリスマスの演奏会をうれしく思います。今回は得意にされているピアノという楽器から離れ、アカペラの組曲ですが、そこにはざわめく木の音、木から喚起されるファンタジックな音、存在と向き合う虚ろな音、温かい肌触りをもった音が鳴り、宇宙のような音楽を感じさせてくれます。
音楽は夢と思い出を運びます。音楽は他者に対する祈りと想像力を運んでくれます。このひとときが、音楽の祝福に満ちたひとときになりますように。


2012.12.16
初演パンフレットのメッセージ