映像の20世紀
コンソーシアム京都での授業(2003.1)
1.映画とは何か?
◎本日は、授業のひとコマをいただきました。数年前より大学内において映画上映をするという仕事 をしてまいりましたが、今日はこの場をお借りして20世紀の芸術といえる映画について私自身が大学生のころから思っていたことを語ってみたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
●映画は偉大な芸術のジャンルの一つである
そもそも人間は自らと世界の存在意義と対峙しながら全身全霊を込めて芸術と格闘してきました。
絵画
音楽
文学(叙事詩、抒情詩、演劇、/小説)
<テクノロジーと結びついて>
写真
映画
●20世紀は映像の世紀
人類史の文脈の中での「20世紀」のパラダイムとして、あるいは個人を取り巻く「現在」のパース ペクティブの中で映画の題材を理解してみましょう。(縦横の時間軸、空間軸)
風土 世界
季節 地平
政治 社会
戦争 民族
宗教 自己
哲学 神
生死 家族
愛憎 他者
こういう文脈の中で我々は生きており、映画芸術も当然こういう文脈の中で存在し解釈(見出されて)されていくべきだと思います。
2.大学生はもっと映画をみるべき
●必読図書があるように、必見映画があってもいい
20世紀の作家として、私たちは世界的な文豪の名前を挙げることが出来ます。ジョイス、プルースト、 ヴァージニア・ウルフ、フランツ・カフカ、カミュ、ピンチョン、ボルヘス、マルケス、大江、… という作家が20世紀を彩ってきたのと同じような影響力をもって、映画100周年、20世紀を彩った面々がいます。例えば、チャップリン、キートン、ウェルズ、ルノワール、ヒッチコック、フォード、小津、黒澤、ゴダール、フェリーニ、ヴィスコンティ、ブニュエル…なんかです。こういう名前を出してみると、100年の間に輩出した世界的な著名人(影響力を与えたという意味、あるいはシンボリックな人名として)ということでは遜色がないどころか、文学を凌駕する存在として無視し得ないのではないでしょうか。
映画は美術と同じく越境がたやすくグローバルな時代に象徴的なメディアです。(何しろ、小津安二郎 の幻のフィルムがスウェーデンで発見されたり、日本の映画館でイラン映画が見られるような状態ですからね。)
もちろん、小説そのものも玉石混交であるように、映画も玉石混交です。本当に良い作品にたどり着けるかどうかという問題はあります。そもそも、「なぜ、映画を見た方が良いのか?」などということ は、「なぜ本を読んだ方が良いのか?」という命題と同じようなもので、「見ないより見た方が良いに決ま っている」というのが一番妥当な結論だと思います。しかし「教養」や「芸術」あるいは奥深いメディアとして捉える場合、ただたんに闇雲に見るということではなく、「何をどう見るか」とい う物差しを作っていくことも必要なのではないかと考えます。もちろんアカデミズムということで押し込め るのではなく、探求心をもって読み込んでいくと魅力が倍増するというふうに考えてもよいのではないでしょうか。
【一部分上映:映画史】
さて、皆さんはこれまでにどれくらいの映画を見てこられたでしょうか?ロードショーにかかる映画ばかりが映画ではありません。
映画館の料金の高さは問題ですが、現代ではDVD等も普及しています。本来は、アーカイブとしてのフィルムセンターや映画図書館が望まれます。(レンタルビデオは当然売れ筋の作品ですからね)
●映画はまだ見方の確立していない歴史の浅い総合芸術である
映画は、(物語、視覚、聴覚)の総合芸術でありますので、多様な作品のあり方や見方が可能です。 興行面や制作課程で様々な要素が加わる為に、単純に他の芸術ジャンルと比較することは出来ませんが、 私の感想としては、まだまだ「批評」のジャンルが弱いことに大きなネックがあるように思います。
今日はちょっと変わった観点を持つために少しお話させてもらいます。
例えば小説というものを考えますと、これも「印刷」というテクノロジーを伴って発展したと言えるので意外 と「後発のジャンル」であることが分かりますが、それ以前の「文学」の主流とも言える「叙事詩や抒情詩 (伝承可能な)」等、もしくは「演劇」とは一線を画したジャンルと言えると思います。ジェイムズ・ジョイスの 小説「ユリシーズ」のストーリー(あらすじ)を考えた時、シンプルにすると2行くらいになります。ドストエフスキーの「罪と罰」にしたところで似たようなものです。語るべきストー リー(あらすじ)というものは神話の時代からそう大きく変わってはいませんし、類似のあらすじを持つ小説はより多く存在するでしょう。小説における技量とは、言葉の構築性や文章の表現力とかを含めて書き記されられ方によって感じられるものだと言えるのではないでしょうか。
言うなれば、小説は(あらすじ)ではなく、文章や言葉の喚起する力によって不可視の概念を表出する芸術だとも思うのです。
映画も当然複合的な要素から成立しており、様々な見方が可能なのですが、 どちらかと言うと見方?のバリエーションや豊かさに対する気付き?がまだまだ弱いのではないでしょうか? いや、悪いことに「ストーリー」が分かることが「理解」したこととなる(ことが多い)という問題を抱えて いると私は考えています。
「筋を説明」していくことと「映画の本質」は違います。語るべき対象がいかに高邁であってもアカデミックであっても、映画のファンクションを十分に生かしてないと魅力的な映画とは言い難いと思います。逆に、恋愛映画であろうが犯罪映画であろうが、テキストに対して映画のファンクションを生かして「(豊かな)表現」を可能にしている映画は技量の優れた映画であるという観点があってしかるべきだと思うのです。むしろ リアルタイムで観客の情緒とシンクロする映画には、音楽に近い「ハラハラ、ドキドキ感」「情緒と連動すること」もまた重要であるとも言えるのでしょう。ところが、現実的には映画において「お話が」感動的であるかどうか、というような「映画的」の特徴とは関係性の薄いような観点で批評がなされてしまい過ぎる傾向があるように思います。また、我々観客も「好きかどうか」という「感想(映画評論家と言われている人を含めて)」が支配的であり、それ以上のことを語ることを「そんな難しいこと考えなくても」と言われる風潮を作ってしまいます。 しかしながら、ここは大学生の授業ですので、敢えて映画をじっくり「見つめてみる」ことに拘ってみたいと思います。
極端な示し方をすると思いますが、例えば、皆さんは下記のような見方をしてみたことがあるでしょうか?
3.映画の見方の一つの提案(その1~鑑賞眼を養う)
3-1 可視的なもの(シニフィアン)をそのまま読み取る
【冒頭上映:東京物語】
(質問)
・この5分間で何ショットあったでしょう?
・何がどういう順番で映っていましたか?
【冒頭再上映:東京物語】
●映画はまず画面をみよう
つまり、映画には要約可能なストーリー以上に「いかに見せるか」という大きな命題のもとにたくさんの要 素が複雑に構成されています。映画は人を涙、笑い、驚き、理解へと向かわせますが、我々がこうした感情面で答えるのは決してストーリーのせいではなく、ストーリーの見せ方だと言えるでしょう。
映画は小説や美術や写真や特に演劇に似ていますが、そのいずれとも違います。そういう意味では映画というものの特性(ファンクション+形式)にもっと着目すべきではないかと考えます。審美眼や鑑識眼、鑑賞眼というものをもって映画と対峙してみるというのも一つのスタンスではないでしょうか。
【一部分映画:抵抗・スリ】
R・ブレッソンは恐らく最も映画の機能を熟知して意図的にその機能を発揮するような映画作りをした監督であると思います。映画を徹底したシネマトグラフとして扱い、職業役者を使わず素人しか使いませんでした。(映画は演劇にあらずという考えでした)。
手のクローズアップ、ドアを握り、鍵を差し込み…というシークエンスが続き、この男が脱走を試みているのだと理解します。あるいはスリであると理解する…。スリであると理解させる方法がいくつかあると して、(シニフィエ/デノテーション)それにいきつく方法論、手法が映画の醍醐味であるように思うのです。 我々は、「スリ」であるということを次々に読み取っていきますが、映像を繋ぐリズムとか、その手法が問題なのです。
【冒頭再々上映映画:東京物語】
「石灯篭」「海が見える」「船着き場」「子供が歩いている」(東京物語冒頭…)、、どのような光(日 差しが強いか、早朝の薄い光か)が選択されているか、あるいはショットの連続がどういう順番で映って いるか。シニフィエの統合からは自由なシニフィアンに満ちています。少し難しいですか?まずは映像そのものの力とでも言うのでしょうか。
→ピローショット、ローアングル、足の裏や立ち姿が美しい・・・という細部から無媒介的な情緒が喚起される瞬間を見逃さないでください。フォトジェニックという言葉で解説することも出来るかもしれません。
【シート1(PDF)】
●映画はシニフィアンの洪水である
・山中貞雄の雪
・スタンリーキューブリックの明り(バリーリンドン)
・ヒッチコックの牛乳(汚名)
・タルコフスキー…濡れている。雨、雪、髪を洗う母親…。
・キューブリック…シンメトリックな構図
・ジョン・フォード…荒野の一件家。部屋の扉を開けると西部の荒野。
・ビクトルエリセ…蜜蜂の巣型の窓、
・汽車や電車や船などの運動体をどう捉えるか?(逢引き、ひまわり)
・季節感をどう表現するか?(ロメールの夏バカンス、黒澤の暑さ、加藤泰の果物)
・切迫感(ヒッチコックの追う男、追われる男)
・好きだという気持ちをどう表現するか(成瀬映画の小指の紙縒り)
3-2 不可視的なものについて
【一部分上映:愛のコリーダ】
●表層の意味(デノテーション…「愛のコリーダ」日の丸は日本国家の国旗)
・「小津」の主人公がお茶漬けを食べている。(食べている)
・「ひまわり」における子供用ベッド。(子供が居る)
●深層の意味(コノテーション…日の丸は戦争、帝国主義、来るべき軍靴の象徴である)
・「小津の主人公がお茶漬けを食べている。(主人公たちの生きるべき日常の時間)
・「ひまわり」における子供用ベッド。(誰かと結婚してしまったんだ。当然のこと。仕方ない。嬉しいけど寂しい気もする。)
●深層の意味に対峙していく(解釈していく)
さきほどは、映像そのものの力について話をしました。しかしながらもし、先の項目で述べた 「可視的メッセージ」だけで成り立っていたら映画のジャンルは非常に貧相な中身しか有さな い表現様式になるでしょう。つまり、表現物であり芸術である映画は冒頭に述べたようなパースペクティブの中で何かを主張しているに違いありません。「伝えたい情緒や感情、メッセー ジ」があるから人は何かを表現しようとするのでしょうし、現実社会の複雑性を表現するのに 映画というメディアは非常に優れた機能性を持っているとも言えます。ただし、そこを解釈し ていくためには文脈に対する理解や知識が必要であることも事実です。(合わせて身につけていくべき)
また、対峙していく精神力が重要ですし、「見える何かから見えない何かを喚起する」イマジネーションが重要であるとも言えるでしょう。もちろん、理解したから、言っていることが分 かったからと言って「優れた映画」になるわけではありませんし、胸を打つ感動が沸き起こっ てくるのでもありません。しかしながら、ドストエフスキーを読む時にキリスト教やロシア正教に対する理解を加えていくと、世界観や人生観に多層的で深みのある理解や解釈が可能にな るのと同様に、アンゲロプロスの映画に内戦の記憶とギリシャ神話の構成を重ねることで時間 の雄大さと歴史の反復性の逃れようのなさのようなものを読み込むことが出来るはずです。
映画は作り手と受け手にとってそのような魂の深みでの対話が可能なメディアであるということも事実なのです。
4.映画の見方(その2~戯れる)
●<不確かなもの>のリアリティ
さて、私個人の感想としても、あと一つ加えておくことがあります。それは「リアリティ (本当らしさ)とでもいうものなのかもしれません。映画というメディアは、実際の時間を映 し出せるということにおいて、極めて「生きていることの手触りに近い」芸術であると思います。
我々の人生には明確なストーリーは希薄でありますし、我々はストーリーを生きているのではありません。映画は実は、映像の切り取り方や細部のディテールや演出によって「あらすじ」 からはみ出した「情感」や「雰囲気」というものを表現できるジャンルでもあるのです。(詩情とでもいうのでしょうか?)。
我々は、夏の夕暮れの打ち水を通りぬけてくる風に涼を感じ・・・、恋人と別れたあとにふと見上げた夜空の月に言い知れぬ感慨を持ち・・・、無邪気に遊ぶ子供を見ながら自分自身に流れていく時間の経過に溜息をついたりする生き物ではないでしょうか?
人生においても人生の基幹部に還元されることばかりが重要なのではなかったりすることを良く知っています。映画がそれを表現し得て、「分かる分かるこの気持ち」「ストーリーは忘れたけど、あのシーンが忘れられない」という感想を持ちうるジャンルであるということも言えるのです。
【シート2(PDF)】へ
・ <コードのあるメッセージ・・・上記の「表層」「深層」を包括>
・ <コードのないメッセージ・・・無媒介的なもの、つかみにくく定義しにくい>
→型にはまらず戯れ、ぬぐい難い印象の類を見つける
→感受性の領域で映画を見る
●実はプンクトゥム(小さな痛みのような印象)に反応することは多い
・様々な感情は、実人生に舞い降りる。
↓
・我々は映画を見ることによって人生を何度も生きているのではないか?
↓
・解釈不可能性に対して肯定する側面を持つのは、我々が「人生をそのまま受け入れる」
ということことを経験しているからでもある。
5.大学生へのメッセージ総括
・映画について陥りやすい罠である「分かりやすさ」とか「分かり難さ」についての概念を変えよう。
→ストーリーが分かるということで分かった、分からないことで分からないと言っていませんか?絵画について分かる、恋愛について分かる、人生について分かるという概念がナンセンスなように、映画について分かるということは必ずしも的を得た概念ではないと思います。
・可視的なものをしっかり見つめよう。
→映像そのものの持つ力、映像の構成や選択からどのように「見せようとしているか」という作家の態度に注目すべきではないでしょうか?
・不可視のものについて、諦めずに対峙しよう
→ストーリーばかりが不可視なものではありません。不可視のメッセージについて、大学生らしく一生懸命精神性と想像力を持って向き合ってみましょう。その為に他ジャンルへの理解が必要だとしたら、自分の世界を広げるチャ ンスと思ってがんばって勉強しましょう。
・好きな場面、好きなシーンを大切に。
→人生のワンシーンが胸に残るのと一緒で、映画のワンシーンが胸に残ることは、それはそれで一つの映画の醍醐味ですね。
<可視的・・・何が映っているのか良く見る>
<不可視的・・・映っていないもののうちの「表層」「深層」を整理>
●ともかく、感受性の柔らかな時期に真剣に映画をたくさん見よう!!!
…このことを最大のメッセージとして、本講義を締めくくりたいと思います。一生懸命たくさんの映画を 見る中で自分なりの映画観、鑑賞眼を養ってみてください。そのことが、あなた自身の人生観や世界観を 磨くことに繋がっていくはずなのです。なぜなら、20世紀の偉大な映画作家たちは映画によって世界中の人たちに人生観や世界観を語ってきましたから。・・・そのメッセージをしっかりと受け止めてみませんか。 ありがとうございました。また、大学ホールの映画上映でお会いしましょう。