アンドレイ・タルコフスキー ~「鏡」をめぐる「言葉と呟きのはざま」
クローバーシネマトーク(2005.12)
1.映画「鏡」について
まずは映画「鏡」ですが、いかがでしたでしょうか?
このタルコフスキーが亡くなったのが1986年(大学入学の年)。以来、映画ということを考えるごとに浮かんでくる最大の映画監督の一人でありつづけています。そして「鏡」はその中でも 最も好きな映画でありつづけます。(これは自分が作るべき映画だ・・・と思うことがありますが、まさしくそうで、私にとってはそれは最も好きな5つの作品、、「恋のエチュード」であり、「鏡」で あり、「オルフェの遺言」であり、「父ありき」でありますが…)
好きな映画について語るというのは、実はなかなか他人が介在しにくい状態を作ることにもなり躊躇します。好きな人同士がしゃべると他人が口を挟めなくなるほど、ローカルかつマニアックな状況に突入するものですが、ちなみにこの中でタルコフスキーのことを既に好きだという方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか?
時々、「鏡」が難しいというふうにおっしゃる方がおられますが、私にとって、これほど分りやすい映画はないとさえ言えます。ちょっと自分なりの解説のようなものを作ってみました。
我々の人生にストーリーがあるでしょうか?大きな川の流れのような人生の時間はあります。しかし、順序良く人生が進行していくのではなく、人は眠った時に夢を見るし、起きている時も夢を描いたり、過去の思い出を思い起こしたり、不安に思ったり期待をしたりします。目の前に起こっている 可視的なもの(認識可能なもの=言語で既定可能な事態)だけが事実ではなく、想起されてくるもの、 気持ち、いろんなことに分断されながら人生は存続していきます。
タルコフスキー &「鏡」についての資料(PDF)へ
2.映画を巡る曖昧な言説
そもそも、映画というメディアについて、私自身も含めて人々はあまり深く認識していないのではな いかと思うことがあります。
例えば、絵を見てあまり我々は「分かった」とは言わないし、音楽を聞いて「分かった」とは言わな いけれど、文芸であれば、分かったとか分からないということを言わねばならないような感じがある し、映画もまたそのように思っている節があります。しかしながら、文芸評論とは異なり、映画評論の確固たるスタイルを確立し得ていないジャンルなのではないかと思います。映画が映しているものは「可視的」であるのに、我々はそこから不可視のものを読み取りすぎてしまい、「可視的」なものと「不可視的」なものを混同して語ってしまいがちであるし、それはさらに自分たちの人生というフィルターを通してしまうように思います。
何故なのでしょうか?それは「映画が人生に近い」からではないでしょうか。第一、映画は「実際の時間」を映し出せる唯一の表現形態でもあります。その曖昧な手ごたえの中に映画を巡る論説は位置してしまうことになるのです。
ゆえに、私の語りも決して映画の分析ということではなく、逆にその曖昧さの弱点に乗じたトークを試みるつもりです。
3.三人の天使
さて、タルコフスキーのファーストネームはアンドレイです。かつて、ヴィム ヴェンダースという監督が80年代の最大傑作とも言える「ベルリン天使の詩」(映画は天使が「刑事コロンボ」のピーターフォークの姿を借りて地上に舞い降りる訳ですが、)のラストシーンでこのような映像を見せています。私は、ずっとそこに象徴的なものを感じてきていました。
少し、それぞれの映画を見てみましょう。この三人の監督に共通するものは何なのかとずっと考えてきました。
【一部分映画:ベルリン天使の歌】
実は卒業論文のタイトルが、タルコフスキーと小津安二郎を、「水」と「乾き」というイメージから対比したことがあったのですが、見ていくと驚くべき相反性を発見し、この両者は世界に空いた二つの入口ではないかと思ったことがあります。
今、「言葉と呟き」というタイトルを思いついた時、浮かんだもう一人の映画監督はフランソワ・トリュフォーです。リアリティや手ざわり感、身近さの空気を映画に持ち込んだトリュフォーを論じるとなると、きっとそれは「手紙と日記のはざま」というややイメージしやすいタイトルになったのかもしれません。
ヴェンダースが天使というタイトルのつく自作の映画にその三名の(故)監督の名前を捧げたのは偶然ではないと思います。三名の監督に共通するのは「生き生きとした子どもの出てくる映画を撮っていること」とも「みずみずしい天使のような感性をもった映画監督だから」でもあるのかもしれませ ん。ただし、子供向けの映画を撮っている訳でもないし、子供の出てくる映画なら他にもたくさんあります。
子供は言葉を持ちません。もしくはコミュニケーションのツールとしての言葉の機能を上手く操れません。しかしながら、だからこそ、子供はロゴスとしての言葉を口にし、霊的な存在であると言えるのかもしれません。
【一部分映画:ベルリン天使の歌・大人はわかってくれない・ぼくの村は戦場だった・東京物語】
4.死すべきもの、蘇るべきもの
また、この三名の共通点は、映画が「死すべきもの=失われていくもの」を映し出す、愛しむ芸術で あることを理解していることであるように思えるのです。「死すべきもの」は「時間」とも言うのではないでしょうか?。小津安二郎の映画の中にはやたらに「集合写真」を取るシーンが出てきますが、 その度「ロランバルトによる、写真のノエマ=それは、かつて、あった」を思い出します。トリュフォーは、日記や手紙のというモチーフを使って、「日記が、いつか思いだすために存在するものであり、手紙が、いつか他人によって思い出されるために存在されるものである」ことを意識したイメー ジに彩られているようにも思います。
ベルリン天使の歌 大人はわかってくれない ぼくの村は戦場だった 東京物語東京物語 アデル
それに対してタルコフスキーのアプローチの象徴は「鏡」なのではないかと思うのですが、タルコフスキーの世界観というものを振り返ってみましょう。
5.タルコフスキー映画の世界観(A)
【一部分映画:サクリファイス・ノスタルジア】
○ソビエト(社会主義/計画性)ルブリョフ、ストーカー
○西欧(資本主義/効率性)ノスタルジア、サクリファイス
3人の天使資料(PDF)へ
タルコフスキーが生きた時代はベルリンの壁崩壊の直前という時代でした。
第2次大戦後の価値観の行き詰まりの時代。
しかしながら、単なる文明批判であれば映画としての価値は乏しい。タルコフスキーが不可視のメッセージではなく、可視的なものとして何を映してきたかということを少し確認してみましょう。
5.タルコフスキーの世界観(B)
【一部分映画:ソラリス・ストーカー・鏡・ストーカー・サクリファイス】
・霊的なもの
・石を超えた力
・水溶化
・火
・地球の持つエレメント(人間の叡智を矮小化させる
見ていただいたようにタルコフスキーは火や水や空中浮遊なんかが登場します。
映像の肌触りというか、生々しさの直截性のようなものを感じます。
(例えば、映画「鏡」中のお母さんの空中浮遊が本当でない、にしても本質的なものであるに違いないと思う。我々の人生には(夜見る夢)までも含まれるのだとすれ ば、鏡の中に封印された記憶はすべて事実かどうかは別にして、本当の意味で本物だ と言える)
6.「言葉」について
さて、言葉と呟きのはざまに何があるのでしょうか?
【映画:ストーカー・ノスタルジア・鏡】→一部分を上映
「鏡」の冒頭で非常に象徴的なシーンが登場しましたね。
言葉は「コミュニケーションのツールである」というのが非常に一般的な考え方です。 しかしながら、言葉の可能性と不可能性についての観点から考えてみれば、ストーカ ーのゾーンと向き合う人とゾーンのコミュニケーション、惑星ソラリスのソラリスの海、 …この「コミュニケーションとディスコミュニケーション」のはざまに、タルコフスキ ーのタルコフスキーたる表現スタイルが見えます。
表面的な言説ではなく、内面の「呟き」が顕在化しているのです。(これを見た時、 自分の映画だと思った。世界の全てがここにある・・・と思いました。)
鏡に映った姿が本当の自分でないことは言うまでもありません。まるで本物のように見える「偽者」なのです。しかし、重要なのは「鏡」にこそ、より「本質的」なものが暴かれやすいということでしょう。つまり「言葉(コミュニケーションのツール)」 により現されるものより「呟き(ディスコミュニケーション的な要素を持つもの)」に 本質が宿っている場合があるというふうにも言えるのではないでしょうか。
タルコフスキーはこのように語っています。
『私の映画には「ことば」のテーマがしばしば見つかる。それは私たちに霊感を吹き込 み、偉大な行為や邪悪な行為へと誘うことができる。
それなのに、昨今では、言葉は価値をなくしてしまった。世界には空虚なおしゃべりが充ち満ちている。そういうものが必要だと私たちが言っている情報のすべてが(ラジオとテレビのことを考えてみればよい)新聞を飾るあの果てしなく切りのない論争のすべてがーそのすべてが空虚で無意味なのだ。生き残るために、人はあらゆる種類のことを 知らねばならないと私たちは想像している。ところが、そんなものは実はこれっぽっち も必要としていないのだ。そんなものは厳密な意味で、無用な知識なのだ。この饒舌な 情報の重荷に耐えかねて私たちは皆、死んでしまうだろう。実際、しゃべるより行動し た方がよい。私たちが意思伝達に利用する言葉、語句に関して言うと(もちろん、そこには芸術も含まれる)それらは情熱のあらゆる痕跡を剥奪されるべきなのだ。郷愁を込めて、私たちはオリンピアの理念に、その冷たさに、その古典的な厳粛さに、共感するのだ。そこには、偉大な形而上学的傑作の魔法が・・・、その秘密が住まっている。』
「呟き」とは何でしょうか?。(ざわめき…、出されない手紙、読まれない日記、コミュニケーションになりきらない「漏れ」のようなものにこそ、無自覚な本性が含まれるのではないでしょうか?)シニフィエとシニフィアンを超越した多元的な光のよ うなもの。機能を担うものではなく、真理を宿すものではないでしょうか。
【一部分映画:サクリファイス】
「はじめに言葉ありき」というサクリファイスの引用。
はじめにあるのは奢った人間ではなく、人間を人間たらしめるのは「ロゴス=言葉=真理」 です。そして、人間が言葉をコントロールするのではなく、「ロゴス=言葉=真理=音楽」 が人間に生命感を与えてくれるのです。そのスピリチュアルな真理に対して謙虚である世界観がタルコフスキーの世界観であり、その芸術態度はどうしても「武満徹」を想像させます。
水のメタファー、樹のメタファー、吃音と呟きのメタファー、
冒頭にも述べましたように、このトークのタイトルが象徴するものは、曖昧さです。
言葉と呟きは、例えば蝶番のような関係性を有しません。「言葉」がより根源的で広範な意味内容を有しているのに対して、呟きとは一定の動作、もしくは動作から連想される一種のナイーブなイメージを有する言葉であって、対立する概念でもなければ、明瞭な象徴性を持ってその「はざまに」何かが有するのかということを一瞬にしてイメージしてしまう関係性でもありません。
ただし、言葉と呟きのはざまには、「豊かな世界」と「不完全な小さな命の震え」の間に生じるような、コミュニケーションともコミュニケーションでないとも言い難い音楽的な対応関係を感じます。
さて、皆様には、何かを読み取って欲しいというものではありません。人生が解釈不可能なのと同程度に映画の中の真理は解釈不可能です。でも人生を解釈する必要がありますか? …同じ様にもしタルコフスキーの映画が「分かりにくい」としたら、それは人生や世界が分かりにくい、というだけのことかもしれません。癒しというと安直ですが、世界に通底する感情と呟きとしての理性の不備ゆえの感受性の漏れとの相互作用がタルコフスキーの映画かもしれません。そして、映画を見るということはそのはざまで「戯れる」ということに他ならないのです。