雨の日には
職場のコミュニティ誌に(1990.6)
そう言えばその昔、(といってもつい4、5年前まであったのだが)京福一乗寺駅 付近の商店街の中に「京一会館」という薄汚い映画館があった。
今ほど奇麗に区画されていない頃、市場か何かの2階で、細い怪しげな階段を上がっていったところであった。一応名画座なのだが、上映するのがまたどうしようもないマイナーな映画ばかりであって、その分一部の映画ファンには熱狂的に指示さ れていたものの、客が入らず隔週でポルノ映画を上映していた。私は中学の頃から よくこの映画館に足を運んでいた。(といってもポルノ映画を見にいっていた訳ではない)いつも客はおらず、めったに満員になることはない。早く行くと500円 で映画を見ることができたので、私は午前中の初回から足を運んだが、受付けに座っているおばさんがよく「兄ちゃん、あんた3人目やで」とかなんとか言ってチケットをもぎってくれた。映画の日には、それ以上安くならないかわりに、「兄ちゃん、缶ジュースとココナッツサブレとどっちええ?」ときいてサービスしてくれた。
最近、昔からの映画館や名画座がばたばたと閉鎖されている。そう言えば四条大宮にあったコマゴールドも閉鎖されてしまったし、大阪にあった名画座も幾つか無くなってしまっている。これだけビデオが普及してくると、昔からいた熱心な映画ファンもすっかりホームビデオで、楽しむようになったのだろうか。テレビ画面も大型化、高級化し、むしろ家で寝転がっていたほうが気楽でいいし、それはそれなりに面白い。しかし、私はいまだに映画館に足を運ぶのが好きだ。
もちろん臨場感が違うとか、テレビの画面では味わえない圧倒的な映像を見るためとか、…理由は沢山ある。
ただ、私にとって映画とは眠りのようなものだ。
あの独特の暗闇の中で夢にも似た幻覚を体験すること…。映画が終わって外に出た時、一眠りしたあとの幸福感と、夢から覚めたあとの少し寂しい感覚が入り交じったまま町を彷徨うこと…それがなんとなく好きだった。
いつだったか…その映画館が閉鎖される半年くらい前だったと思うが、6月ごろの雨の日、小津安二郎の映画を見にいったことがある。正確に覚えてはいないが観客は4人ほどしかいなかった。
受け付けのおばさんに、「あんた、今日はだれも来ーへんか思ったわ…」と言われて入ったのだが、微かに雨音が聞こえる静かな館内には、驚くような新鮮さと優し さに満ち溢れた映像が広がり、眠りにも似た心地好さに包まれた。小津の映画は5回繰り返され、降り続く雨の中、私はまるで布団から這い出ることが出来ずにいるように、映画館の切り離された空間の中で漂っていた。
小津、成瀬、トリュフォー、ルノワール、キューブリック、…上映は、いつも同じような人数のまま始まって終り、私は相変わらず降り続く雨の中を寝覚めのような心地で出ていった。
「兄ちゃんまたな」と言う声を後に、近くにある古本屋に足を向けると、映画ファンの主人がチラシやポスターをくれ、雨宿りしていけという。それでもまだ覚めぬ映画の余韻と雨の匂いを混在させたまま、ゆっくりと京福の駅に向かって歩いて行ったものである。映画の内容はさることながら、そのなんともいえない幸福な余 韻を楽しむために、足を運んでいたのかもしれない。
暗闇の中で目を閉じること。…それによって、陽射しの中では見えなかった様々なものが心に映じる。そして、再び目を開くと同じ町や空気が以前と違った色に見え てくる。…目を閉ざすことと映画館の暗闇に入ること、夢見ることと映画をみるこ と、そして、目覚めることと映画館から出て空気の匂いを胸に吸い込むことはほと んど同じ事なのだ。…よく、そう思いながら歩いた。ことに雨の日は、濡れた町の 表情が洗い流された心のように美しく映り、目を閉じていたことによって少しだけ 瞳が磨かれたのかもしれない、などと考えたりしてみた。そんなふうに町を歩くと、 今見た映画がよりいっそう愛しいもののように感じられてくる…。
…映画館を出る度にそんな気がするのだ。