ヴィスコンティ ~滅びていく時代と個人

クローバーシネマトーク(2006.12)

はじめに

昨年度もこのシーズンにアンドレイ・タルコフスキーについて語らせていただきました。
専門的に勉強した訳ではないですが、映画愛好家として、またWOTやふらっと♭、その他寒梅館のイベントの責任者として、本年度も最後の映画トークを務めさせていただきます。

本日「イノセント」が上映されましたが、いかがでしたでしょうか?ヴィスコンティの遺作に相応 しい見事な様式美、映像、モチーフの生かし方、色(同じ赤でも微妙にコントラストを付けていたり、白い色の衣装でも背景を少し違えることで、登場人物の精神状態や雰囲気に微妙な変化をつけていますね・・・)に拘った美しいディティール、演出であったことに加え、ヴィスコンティ作品の 「官能性」とも言うものが匂いたつように表現された映画でもあったと思います。ヴィスコンティ の最高傑作と言う方も多い作品ですね。

私自身のことを申し上げますと、私のヴィスコンティ体験はリアルタイムではなく、大学2年生く らいの時(1980年代半ば)に「山猫」のリバイバル上映を見てからでした。「美意識の高い作品群」に「世の中にこんな素晴らしいものがあるなんて・・・」と思ってのめりこんでいったのでした。 最終的には映画監督としての興味はタルコフスキーや小津安二郎のほうに傾いていったのですが、 その直前まで、ヴィスコンティは私の中でも最良の映画監督の一人でした。映画というか、オペラや演劇への関わりを含めて尊敬すべき偉大な芸術家であったように思います。


1.ヴィスコンティ映画の位置

まず、ヴィスコンティの位置付けを映画史の二つの文脈から見ていく必要があると思いますが、ひとつはイタリアンリアリズムと言うべきものの系譜でしょう。敗戦国であるイタリアが映画フィルムを通して時代や現実を直視する中から、「ロベルトロッセリーニ」を筆頭とする映画作家たちが登場しました。分りやすく言うと、アメリカ映画や当時のフランス映画の夢物語的ロマンスに対して、社会の現実や人間を見る目のリアリティという意味で世界に衝撃を与えました。ヴィスコンティも貴族の出身でしたが「赤い 公爵」という名の通り、社会運動に興味を持ち、社会正義や社会の現実を強く訴える作品に取り組んだのがキャリアの最初の頃でした。

【一部分上映:無防備都市・道・郵便配達は二度ベルを鳴らす】

もう1つは、ジャン・ルノワール(フランス映画ですが)、もしくはさらに遡ってエリッ ヒ・フォン・シュトロハイムの描いてきた映画の系譜であると思います。ひょっとすると、 これは、大きく国を越えて黒澤明の映画にも通じていた目に見えない映画美学の系譜であ るのかもしれません。シュトロハイムの本物の家具や食器や食べ物を使ったこの豪勢な晩 餐シーンをご記憶ください。また、ルノワールの人物の情緒の描写についても、ヴィスコ ンティの作品の源流としては相応しい描写があるように思います。映画における美学、あるいは映像の表現様式における美意識の系譜とでも言うべきものかもしれません。

【一部分上映:グリード・ピクニック・羅生門】

「本物に拘った美術」「人間の情緒の描写」「光と色彩への拘り」を三本の映画で見てもらったつもりですが、中でも「ピクニック」ではヴィスコンティも衣装担当として助監督を務めております。イノセントのあの官能的なラブシーンを思い出しますね。

ただし、本来はもう一つの系譜があることを忘れがちです。
それは映画というジャンルを越えた芸術の歴史の系譜・・・、つまり、レオナルドダヴィンチやミケランジェロの美術、もしくはヴェルディやロッシーニらのオペラの歴史の系譜とでも言うべきものでしょうか?・・・ヴィスコンティの映画からは、イタリアという国そのものの持つ、芸術文化に対する懐の深さを伺い知ることにもなります。


2.ヴィスコンティのリアリズム 

ヴィスコンティの作品群は、前期から後期へ大きく作風が変化していると見られがちですが、 例えばフェリーニもそうであったように、「社会の現実を直視する」というリアリズムは 「より人間の本質を直視する」というリアリズムへ変化し、ディティールへの拘り等が、 その表面性ではなく、より本質的なものに変わっていったということでもあるのでしょう。 「イノセント」を見ても、ストーリーの上辺だけをなぞれば、ヴィスコンティがこの作品を映画化するということに驚きの声が上ったほど、下手な演出をすると、何ということのない映画になってしまうのですが、徹底して人間の本質を直視し、描き込むことと、その美意識によって超一流の作品に仕上がっているわけです。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の映画化構想があったことは有名ですが、ストーリーを再現するという ことではなく、映画の素材になる本質を読み込んで、スクリーン上に表出しているという点では、原作がどちらであれ、時代精神や苦悩を背負った「人間を見る」という目を持っ た同様の作品になっているということが言えるのだと思うのです。
そういった意味では、初期の作品群との違いは態度の変化ということではなく「人間を見る目のリアリティ」という意味で一貫しているようにも思います。


3.ヴィスコンティ映画における時間と空間

さて、本日は、そのヴィスコンティについて「時間と空間」という観点から若干思うことを 述べさせていただこうと思います。

資料1:ヴィスコンティを取り巻く諸相(PDF)へ

確かにタルコフスキーを題材に述べさせていただいた時も、そのキーワードに時間(閉じていく時間)ということを述べさせていただきました。もし仮に、小津について、もしくはキューブリックやアンゲロプロス、ビクトルエリセについて、ヴィムヴェンダースについて語らせていただくとしても「時間」というものは1つのキーワードになろうかと思いますし、芸術そ のもの表現作品そのもの、もしくは映画という時間芸術については、より「時間」というもの を実感させてくれるのかもしれません。

いきなり結論じみたことを申し上げますが、ヴィスコンティのリアリズムは、時間を永遠かつ観念的なものとして捉えるのではなく、「時間が腐食していくということを直視している」ことではないかと思います。そして「その時間とは(時代であり、個人である)と言える」のではないでしょうか。ヴィスコンティの人物のほとんどが、その時代と無関係ではなく、時代精神を背負い、あるいは抱え、あるいは時代というものに呪縛されており、時代と無関係に生きることも新たな時代を切り開くこともなく「時代と運命をともにしていく・・・、宿命を背負っている」ようにも思います。つまりヴィスコンティの映画では、<歴史的な時間>と<個人の時間>がパラレルに、しかも不可分なものとして存在しているようにも思います。

ちなみに、後期の作品のほとんどが、「死」や「死の予感」で終わっているのですが、それらのどこにも劇的な要素は(殺人や不意の死など)含まれていません。「死」は時間(時代・個人) の腐敗の必然的な帰結だとも言えるのです。

資料2:滅びゆく時代と滅びゆく個人(PDF)へ


4.映像的モチーフA:ディテール 

映画は「可視的」な描き込みと、それを通して感じる「不可視的な概念」とが交錯した芸術だと思う訳ですが、「可視的(映像で表現)」なモチーフと捉えられる部分をいくつか紹介してみましょう。

1つは時代と個人を取り結ぶものとしてのディティールについてです。

・・・例えば次元や雰囲気の違うことですが、「村上春樹」の小説にはやたら細かいディティールが書き込まれています。青い服とかジュースとかではなく、ブランド名やメーカーが記される訳ですが、ダンキンドーナツとか、シェーキーズのピザとか記されることによって主人公の生きて呼吸している文化圏や生活レベルが克明になり、リアリティや同時代的な息づかいのよう なものが手に取るように感じられることになります。例えばヴィスコンティはフェリーニらとは逆に時代を入念に描き込みました。「時間」というものを観念的にとらえるのではなく、もしくは、初期のリアリズムのように「時代」だけに執着するのでもなく、また、「個人」の問題としてのみとらえるのでもなく「時代」と「個人」の関わりを普遍的なスタイルに昇華させたと言えるのです。

【一部分上映:夏の嵐・家族の肖像・ルートヴィッヒ・イノセント】

冒頭に見ていただいたシュトロハイムの映画を思い出す訳ですが、全て細やかなディティール (古い家具、書棚、壁の絵、食器、寝台)を正確に描き込まれています。そしてそのディティー ルは映画の命として機能しています。決して短絡的に言う訳ではありませんが、このことによっ て、「時間の堆積」「時代と個人の繋がり」を可視的なものとして表現しているようにも思います。


5.映像的モチーフB:化粧

可視的なモチーフの二つ目に、「化粧」という概念を用いてみたいと思います。
「化粧」というのは、美を保とうとする目的で施されているものでありますが、ヴィスコンティの映画の中では、その概念をとても象徴的に援用しているように思います。ヴィスコンティにおいて化粧は「時代の腐敗」を覆い隠すものでもあり「個人の腐敗(老い)」を覆い隠すものでもあります。しかしながら、覆い隠したつもりが、むしろ閉じ込めておきたい内面までさらけ出すことになるということがあります。

【一部分上映:ベニスに死す・地獄に堕ちた勇者ども】

「ヴェニスに死す」のコレラ(時代の腐敗)を覆い隠すつもりの白い消毒液が逆に「時代の腐敗」 をさらけ出したり、アッシェンバッハに施された化粧も、「老い」と「破綻」を覆い隠すつもりが、 ラストにいたって逆にグロテスクにそれをさらけ出すことになったように思います。(「地獄に堕ちた・・・」の女装、は性的変質と政治的変質のパラレリズムの象徴とも言えるのではないでしょうか?)
また、例えば「イノセント」においてやたらに出てくるフェンシングの防具ですが、ある意味ではこれも自らの肉体の衰えを覆い隠す防具でありながらそれがためのものであり、それが剥がれたときに(恋敵に対して)生身の肉体同士の差を大きなギャップとして実感することに繋がったのだとも言えます。

このような可視的なイメージ(A:ディテール→時代と個人が不可分の関係)(B:化粧→時間は 腐食していく)から不可視的なテーマに立ち戻って考えて見たいと思います。


6.ヴィスコンティ映画における密室性

先ほどのヴィスコンティに対して時間の捉え方の話をしました。しかしながら、何故腐食し、退廃し、老化していくのか・・・行かねばならないのか・・・、あるいはそうなることの必然を描いていると思ってしまうのか、ということなのですが、これはヴィスコンティの映画空間的な関心が、「密室性」にあったということからも言えると思うのです。

資料3:空間と時間の密室性(PDF)へ

ヴィスコンティにおけるテーマの対象は、ほぼ密室であったことに注目したいと思います。 例えば、「山猫」ではイタリアの中では特殊な位置付けと歴史を持つシチリア島でありますし、「ヴェニスに死す」では「避暑地ヴェニス」、「家族の肖像」では、「教授の家」という密室、「ル ードウィヒ」ではお城の中、という密室でありました。

密室の中では、時間が流通することなく、新しい時代の波を感じることにも疎く、堆積し、取り残され、衰退していきます。ヴィスコンティの描くテーマは作品によって別々ですが、そのモチーフが全て密室的であることによって、新しい時代の流れから取り残された古い時代の堆積する場所としての密室であることが繰り返されているように思います。

【一部分上映:山猫・ベニスに死す】

古い「時代」は(呪縛された「個人」を伴って)新しい「時代」との対立の中で「密室」へ逃げ込み、そこで静かに堆積するのです。

「ヴェニスに死す」の作曲家にしても、「家族の肖像」の教授にしても、「イノセント」のトゥーリオもそうですが、過去の思い出やイメージや記憶の中に身を埋めているように思います。本当はそこから脱皮して成長したり、妥協したり、しなくてはならない可能性があることを分っているのですが、ある意味では記憶に取り巻かれるという密室性により、主人公の孤高性を保とうとしていると言えるのかもしれません。
ルードウィヒに至っては、ほとんど引きこもりのような状態で、社会の動きに関心を示せず、美術品と音楽と身の回りの者に囲まれるお城の中から抜けられないような状態でもありました。

このような密室性・・・、これは、ある意味では自分の適度な居心地の良さへの偏愛でもあるのかもしれませんし、美術や芸術や文化や風習や血筋や家柄というものは、ある程度このような(何もかも変わらなくていい、このままでいい、この伝統を誇りを持って保っていくことが大事だという態度と) 居心地の中で保護されてきた部分もあるでしょう。


7.保守主義者としてのヴィスコンティ

しかしながら、残念なことに、時代や歴史はたいていが「進歩主義者」のためのものであったように思います。アメリカ大陸が発見した方からの歴史から書かれるように。フランス革命しかり、明治維新しかりです。もちろん良い悪いの問題ではありません。問題はヴィスコンティが取り上げた のは、常に滅びていく側、策を弄して立ち向かうのではなく、諦め、孤高と尊厳の中に滅んでいく側でありました。もちろん社会というのは、改善や前進に向かう必要がある訳で、一人の王様が贅沢をして無駄金を使うより人民全体が潤ったほうがいい訳ですが、そのことによって得られるものがある一方で、そのことによって必然的に失われていくものがあります(実際にはワーグナーはそんな贅沢な王様の庇護のもとに自由な創作活動が出来た訳です)。そしてヴィスコンティ映画の主人公たちには、迎合するくらいならば尊厳をもって死を選ぶということになる訳ですが、ともすれば通俗性を伴った進歩主義に対して、保守主義者側からの視点と気高さがあったように(生き様そのもの)ように思います。

ルードウィヒは決して新しい政治的感覚を持ち得ないでしょうし、公爵はタンクレディにその場を譲らねばならないでしょう。教授たちは時代から逃れられないですし、トゥーリオもまた、詫び、悔い改めて「知的で常識ある市民としての新たな生を生きる」ということはあり得ない選択なのでしょう。

「家族の肖像」のラストで教授が死の床について天井を見あげる場面がありますが、この主人公が指しているのは流れていく時間ではないでしょうか。このとき教授は自分の「内部の時間」と「部屋の中の時間」と「外の時間」との多層的な時間とに取り巻かれているのではないでしょうか。

「ヴェニスに死す」のラストは砂浜を映したロングショットの中にアッシェンバッハがとらえられますが、ここでは彼を芸術家として独自の存在にしていたものがこの時崩れ去り、コレラの蔓延する風景(退廃した時間)の中に埋没していったことを示すものではないでしょうか。

ルードウィヒの死には多くの謎がある訳ですが、本質的には激動する社会から逃れるようにして佇んでいたお城の中で、帝国主義の崩壊と、虫歯から身体全体が崩壊していくことのパラレルで必然的な死であるということを顔が物語っています。

そして「イノセント」の最後です。知性や理性の時代を迎えているにも関わらず、血筋や根拠のない尊厳のようなものだけに依拠している貴族というものがもはや滅びていこうとしている中、孤高の中に尊厳を持って必然的な死で閉じさせた美意識がここに結実しているとも言えるのです。作曲家の死を知らないタッジオと同じく、トゥーリオの死と無関係であろうとするテレーゼの態度が、その死の(時代遅れさ)と孤高を引き立てているように思えます。

【一部分上映(それぞれ「死」をもって完結するラストシーン):家族の肖像・ベニスに死す・イノセント・ルートヴィッヒ】


結び

映画についての見方というのは様々であって良いと思うのですが、例えば知性は感性を鍛え、感性は知性を求める・・・ということの繰り返しから見えてくる世界があるとしたら、それが芸術鑑賞というものの態度かもしれないと考えています。
本日はヴィスコンティの作品において、「密室性」というものをキーとしながら、一つの(時代)とその時代精神を全身で受け止めている(個人)とが、新しい時代の波に対抗しきれずに、尊厳をもって滅びていくという切り口から語らせていただきました。しかしながら、今日のトークや流した映像で、 私から一方的なレクチャーをしたというつもりはありません。もう少し映画を見てみたい、その背景を探ってみたい・・・、という知的好奇心が刺激されたなら、それが一番望ましいことであると思っています。