本を読むこと
2020.1.12
合唱指揮者協会のイベントである北とぴあ合唱フェスティバルの帰りに、清水敬一先生から手渡された(いや、購入した)ご自身の「合唱指揮者という生き方」という著作を読んでいたのですが、ラストにある「人生で最も影響を受けた11冊の本」というコーナーを見て以来、ずっと自分の中では何だろう?と思っていました。清水先生は恐らく60歳という年齢の節目で選出されているのだと思いますが、一冊は確実に重なるなあと思います。
私が書物を大量に読んだのは大学まで。それ以後はほとんど、必要に迫られた読書しかなく、楽しみながら渉猟しているという状況からは程遠いです。
ただこの数年ほどは、厳選しながら読みそびれていた読書を少しだけ繰り返し、狙いが良いので「やあ、死ぬ前にこれを読んでおいて良かった」というものに巡り合っております。昨年出会ったカズオ・イシグロの「私を離さないで」やポール・オースターの「ムーンパレス」はそのような一冊でしたし、今年は何といっても、ずっと気になっていたのに読んでなかったレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読んで、「無人島に持っていく一冊としてはこれだ」と思ったものでした。
まだ清水敬一先生の60歳には少しあるので、もうしばらくは現在までの候補ということで影響を受けた本15作品くらいをエントリーさせております。→文芸10
すでに、何度か書いてますが、「合唱指揮を勉強したいのですが…」という学生には「君はドストエフスキーを読んだか」ということにしています。別に合唱指揮にドストエフスキーが必要というわけではありません。
合唱指揮を視野狭窄的なもの、表層的なもの、現実逃避的なもの、テクニック論的なもの、段取り論的なもの、…にしてほしくないのですね。自分がどうこうではありません。合唱指揮をするということは、深く芸術表現というものに関わるということですね。
狭隘で表層的なことではなく、人生とは何かとか、世界とは何か、芸術とは何かとか…、音楽を生み出す「源泉」のようなものに対する関心やセンサーがないところに、人の心を支配する音楽など生まれてくるはずもないからです。
もちろん体験から得られるものも多いでしょう。しかし、そういう意味では、必要に迫られない自由な読書や芸術鑑賞から得られるものも果てしないものだと思っています。想像力を刺激し、自分の奥底にある何かと向き合うこと、世界のどこかにある何かを見つけようとすること、そのような気持ちこそが芸術表現の源泉になるのではないでしょうか?
表現したいことが何もないのに、バトンテクニックも楽典も、ましてや邦人合唱曲にウェイトのありすぎる知識やハウツーなども無意味に近いとすら思いますから。
さて、今年のベスト読書は「火星年代記」につきます。 どう言ったら良いか分からないのですが、もし、これが自分が書いた小説と言えるとしたらどんなに良いだろうと思うものでした。
フランソワ・トリュフォーの「恋のエチュード」を観たとき、フィッツジェラルドの「偉大なるギャッツビー」を読んだとき、似たことを感じました。
その他、タルコフスキーの「惑星ソラリス」の原作である「ソラリス」の新訳を読みました。原作はポーランド語のはずですが、これまでのものはソビエト版(ロシア語)からの訳出だったようで、検閲による大きなカットがあったようです。そもそもきっちり読むのは初めてなのですが、新訳をそのような解説付きできっちり読めたことで、原作者レムとタルコフスキーの論争の意味が非常に良く分かりました。なるほど、映画は確かにレムの意図とは異なる…、しかし、どちらかというと原作者としては、自己の意図とは反する反応(浅薄なものではなく、他方向へのベクトルという意味で)があったと思えたほうが自作の多義性を含んだオリジナリティを誇れるのに、と思いました。
「惑星ソラリス」のラッシュを見終えた黒澤明とタルコフスキーが酒を飲みながら「七人の侍」のテーマを歌ったというのは有名な話です。このときに二人は今地球にいることが嬉しくてつい歌った、と語っています。
このノスタルジックでリリックな反応がレムの意図との乖離でしょう。しかしながら、今回の読書で私はそのような反応をすら生み出す原作の偉大さを改めて感じたものです。どちらも好きでたまらない作品です。とても興味深く勉強にもなった1冊でした。
P.s あとはヴォネガットとか、ノーベル賞のオルガ・トカルチュクの作品とか、チェーホフの新訳とか、村上春樹の文庫になったものとか。