テオ・アンゲロプロス ~映画と世界の距離感
クローバーシネマトーク(2007.12)
はじめに
一昨年、昨年とDVDシアターの一年間の締めくくりとしましてこの場で映画について語らせていただきました。専門的な仕事にしている訳ではないですが、映画愛好家として、またWOTやふらっと♭、その他寒梅館のイベントの責任者として、本年度も最後 の映画トークを務めさせていただきます。
先週には映画史上の不滅の大傑作とも言える「旅芸人の記録」、そして本日は「シテール 島への船出」が上映されましたが、どうでしたでしょうか?素晴らしいと言えば素晴らしいし、眠いと言えば眠いし、難しいと言えば難しい映画といえるのかもしれません。ある意味でどの言葉も、全てこの映画を言い当てていると思います。
ただ、なかでも「難しい」という言葉をついうっかり使ってしまう場合に、私たちは何をもって「難しい」と思っているのか、逆に言えば「何を理解したい」と思っているのか・・・、 と思うことがあります。場合によったら、それは「ストーリー=筋書き」のようなものなのかもしれません。でも、そうだとすると、皆さんがたはあまりご存知ないでしょうが、 最近やっている仮面ライダーのほうが遥かに「難しい」ということが言えたりもすると思 うのです。(ご存知でしたか・・・?、いまや仮面ライダーは誰が敵で誰が味方で誰が誰とどういう関係なのかちょっとやそっとではさっぱり分からないことになっています・・・。) しかしながら、映画とはそもそも何なのか、何をどのように「理解される」べきものなの か、何を描き得て、何を描き得ないものなのかということを考えると、決してストーリー(=筋書き)を伝えるために映画が存在しているのではないということになると思うのです。
実は2年前のタルコフスキーのトークをさせてもらったときもこのようなことを述べさせてもらっています。例えば、私たちは絵を見てあまり我々は「分かった」とは言わないし、 音楽を聞いて「分かった」とは言わないけれど、文芸であれば、分かったとか、分からないという「了解の概念」を使わねばならないような感じがあります。映画もまたそのよう に(何かを読み取らねばと)思ってしまっている節があります。しかしながら、文芸評論 とは異なり、映画評論は確固たるスタイルを確立し得ていないジャンルなのではないかと思いますし、映画の見方というものも、もちろんどのような見方があっても良いのですが、 報道メディアとも言えるテレビ等の影響によってその幅が窮屈になってしまっているよう な気がします。映画が映しているものは「可視的」であるのに、我々はそこから不可視のものを読み取りすぎてしまっていたり、「可視的」なものと「不可視的」なストーリーを(混同して)語ってしまいがちです。
良い写真かどうかが被写体の良し悪しで語られたりしないのと同様、映像(動画)が言語である映画がストーリーだけで語られることはあり得ないと思います。むしろ文章や絵画では表せない「世界や時間との距離感」のようなものを映画は実感させ得るのではないか と考えています。なぜなら、それは「映画がもっとも人生に近い」「世界そのものに近い」 からです。映画は実際の時間を映し出せる唯一の表現形態でもあります。であると同時にまた映画は擬似的にでも実際の世界を映し出せる唯一の表現形態でもあります。その曖昧 な手ごたえの中に映画を巡る感想や論説は位置してしまうことを了解すれば、「人生をストーリー」で説明できないのと同様、人生の無常観や世界の終末感のようなものを簡単に言葉に置き換えて説明出来ないのと同様、映画は人生や世界についての感慨や気持ちをそのまま伝えうる表現形態であるということを忘れてはならないと思うのです。
1. アンゲロプロス映画の位置
-1歴史的文脈の中でのアンゲロプロス
さて、冒頭の話に戻るのですが、私たちが分かり難いという時に、確かに映画が伝え観客が了解するための一つの文脈があろうかと思います。それは非常に不可視的なことで、 アンゲロプロスの映画では、例えばギリシャの近代史とかギリシャ神話とか言うことです。 ギリシャの近代の歴史は島国である日本人にはなかなか縁遠い感じがしますが、20世紀 に入ってからも別表のような激動を経験しています。トルコとの問題、ブルガリアやクロアチア、セルビアとの問題、・・・少し調べてみたのですが、このメモ項目だけでは到底不十分で、ギリシャという土地がヨーロッパ全土の中で非常に重要のポジションを占めていたことから、他国からの略奪や関与に絶えず、古くから「戦争や内戦」「近隣諸国とのトラ ブルから生じる難民」「民族としてのアイデンティティの問題」と言ったものが非常に根本的な問題として横たわっているようにも感じます。そして、社会主義革命への栄光と挫折とか、ソビエトの崩壊とかがもたらした世界史への影響のなどが20世紀ヨーロッパ史 を通した普遍的なテーマとして炙り出されてくるように思います。
また、ギリシャ神話というのはある種ヨーロッパ的なものの文化の根底に横たわった前提理解だと思うのですが、日本人にはなかなか分かり難い文脈を形成しているようにも思い ます。例えば、日本人だと誰でも知っているような、ヤマタノオロチの話とか、赤穂浪士討ち入りの話とか、弁慶と牛若や源氏と平氏の話があるとしますが、そういったものの潜伏的な文脈は繰り返し語り継がれる中で、これも一つの普遍的な「人間と社会の関係」のエッセンスとして残ってきているのだと言えるでしょう。
例えば、完全に神話とパラレルになっている訳ではありませんが、「旅芸人の記録」には クリュタイムネストラ、アイギストス、アガメムノン、そしてエレクトラとオレステスが登場しています。
シテール島への船出のシテールはギリシャ神話に出てくる島の名前ですが、美と愛の神のアフロディテが西風の神ゼフィロスによって東の端に(現在のペロポネソス半島とクレタ島との間にある)キュテラ島(シテール島)へと運ばれたとされます。中世になってからはこの神話に「愛の巡礼」の意味が加えられ、演劇や絵画の題材として盛んに取り上げられるようになったということです。
また、ここから読み取れるもう一つの神話は「オデュセイアー」とその妻「ペネロペ」の物語でもありますが、そういう文脈の前提理解が要求されることが「難しい」とつぶやいてしまう概念を形成しているのかもしれません。
しかしながら、全ての歴史や神話が人間の「愛憎」に関係しているように、決してギリシャ近代史とギリシャ神話は特殊なものではなく、ひょっとするとバルカン半島を朝鮮半島に置き換えた物語も可能なのかもしれません。いずれにしても、アンゲロプロスが興味を持っていたのは「史実」ではなく、特殊な神話の再現でもなく、人がいかに人に関わるか、人がいかに世界とかかわっているかということでしかなく、言ってみれば、「人と世界」の関係に関する普遍の感性に裏付けられていると言えるのだと思います。
-2映画史的文脈の中でのアンゲロプロス
アンゲロプロス自身は1935年の生まれですから、映画100年の歴史からすると、所謂巨匠世代ではなく、第二世代というか第三世代ということになるでしょうか。私なりの考え方としては、映画の黎明期に引き続いて30年代の「ジャン・ルノアール」「ジョン・フォ ード」「チャールズ・チャップリン」「小津安二郎」「溝口健二」という時代があって、その次に「ウェルズ」「黒澤明」「ブレッソン」「フェリーニ」「ロッセリーニ」という時代があって、もちろん複合している訳ですが、「ジャン・リュック・ゴダール」の時代があって、 その次に70年世代というか、70年代はアンゲロプロスやタルコフスキー、ビクトル・エリセやダニエル・シュミットらの所謂ヨーロッパの周辺国というか(フランス、アメリカ、 イタリア、日本以外の)映画にエネルギーが漲っていた時代であったということが出来るでしょう。70年代という時代ではもうすでに映画そのものの技法的なものは一通り試されて いたとも言えるのですが、アンゲロプロスは360度長回しという技法で世界を瞠目させま した。
2. そもそも映画とは何をどのように描いているのか
さて、唐突ですが、映画とは一体何なのでしょうか?映画は何をどのように映しているのでしょうか?ちょっと映画を見てみましょう。その後、質問いたしますのでよく見ておいてください。
【一部分映画上映:東京物語】
さて、
どう読み取って欲しいということではないのですが、どちらかと言えばついつい感受性が映像に反応するというよりも、知性がストーリーとか物語を読み解くということに対して偏ってしまっている部分もあろうかと思います。あるいは見ているようで見てないとか、映ってないものを見ているとか・・・質問を変えることで、いろんなことを実感されると思 います。
映画言語の(機能=ファンクション)のことを考える場合、コードのあるメッセージとないメッセージ、デノテーションやコノテーションという記号論的な言及が欠かせないと思うのですが、その点についてはまた別に譲りましょう。私はよく「可視的/不可視的」という言い方をするのですが、映像そのものを見ること・・・、つまり映像をどのように見せるかということに対する意識や、映像が何かを伝える次元のうちストーリーに還元される要素ではなく映像そのものが喚起させる曖昧な力というものを信じるものです。
少し、いくつかの映画を見てみましょう。
【一部分上映:戦艦ポチョムキン】
非常に細かいカット割りでスペクタクルを演出しているように思います。これは「モンタージュ理論」という概念を提示したことで有名なエイゼンシュテインの映画です。エイゼンシュテインはモンタージュ理論を扱った著作の中で日本の漢字を例示しています。象形文字としての漢字ではなく、「辺」と「つくり」によって新たな概念を生じさせる漢字の力 (水と目で泪(なみだ)とか)、違う概念を組み合わせることで第三の新たな一つの概念を作り出すということをモンタージュ理論の根底に据えています。
モンタージュという訳ではないと思いますが、一つの映画の見せ方として、アンゲロプロスと対極的な手法を持つ映画作家を紹介しましょう。
【一部分上映:スリ】
面白いですね。長いカットと短いカットを繰り返すことで一つのリズムや概念が生じてきています。サスペンスの手法としてもよく使われます。
それとは別の映し方をしている映画を紹介しましょう。
【一部分上映:西鶴一代女】
ワンシーンワンカットの魁になった作品で、ゴダールを感嘆させたことでも有名ですし、 実はこの手法はアンゲロプロスに多大な影響を与えたと言われています。
【一部分上映:狩人】
映画を見るという時に(もちろん映画の見方にはいろいろあって良いのですが)、映画が世界や時間から映像を選択し、切り取って組み合わせるという芸術(言語)である以上、 一つの見方としてこういう見方があるということですね。
しかしながら、結果として我々はテクニックが表現内容を支えていることは理解しても、 テクニックだけを理解しても何も始まらない訳で、テクニックが導き出している表現内容に注目したいところです。さきほど申しましたように、映像のテクニックはストーリーを了解させるためだけにあるのではなく、決して安直にストーリーに還元されることのない 「時間や世界」との関わりという意味において機能するものだということが言えます。
もう少し映画を見てもらいます。
【一部分上映:サクリファイス・2001年宇宙の旅】
私なりの見方ではありますが、それぞれ見ていただいた場面は筋書きを中心としたシナリオにすると1行にも入らないと思います。時間とか世界とか、あらすじには書きようのないことを現しているように感じます。
例えばキューブリックのとった手法というのはこういうことでしょうか?(・・・原始人にとっての初めての「道具」は、数万年の歴史を経て人類にとっての「ロケット」になったということを瞬時のジャンプカットによって表現しており、原始人ばかり映っていた画面が一気に宇宙空間に行くことで、「宇宙の歴史から比べると人類の歴史が一瞬であること」 「現代人にとってのロケットと原始人にとっての武器が宇宙的規模からはたいして変わらな いこと」等を読み取ることが出来るかも知れません。ついでに言うと音楽として、ヨハン・ シュトラウスの「美しき青きドナウ」が流れるのですが、宇宙空間を身近な川であるドナウのように感じながら優雅に進む宇宙船の映像と音楽にユニークなメッセージを読み取ること は出来ます。これはストーリーではなく、イマジネーションを含めた世界と私たちの距離感の問題でもあるわけです。
先ほどの小津は意識的であったかどうか分かりませんが、常にストーリーに還元されない映像が多く、例えば空が晴れており、家屋が開かれていて、セリフが少ないことでストーリー とは別の「消失していく(消えうせていく、褪せていく)」という実感と情感を与えてくれ ますし、今見ていただいたタルコフスキーに至っては、夢や幻想や想像や思い出までをも取 り込んだ時間と人生との関わりを了解させてくれます。
時間の関係で上映出来ませんでしたが、例えばオルミの映像はネオリアリズムと呼ばれ、ディティールにこだわったものですが、取り立てて起こるストーリーはなく、人と自然とに流 れる時間との関わりにのみカメラを向け、ひたむきに生きることのけなげな大切さのようなものを心に残してくれます。トリュフォーの作品のように逆にストーリーがはっきりしてい る映画であっても、人生との距離感のようなもの・・・ふとした瞬間にふと投げかける遠い目線 のようなもの・・・を確実に切り取っており、リアルな肌触りを感じさせてくれます。
アンゲロプロスのとった手法はどうでしょう。カメラを360度円環させて、戻ってきたら不思議なことに時間が飛んでいるという映像が使われます。時間の越え方についての描写は、 単に時間の捉え方ということではなく、世界と自分の距離感というものを喚起させているようにも思います。神話的世界の中での時間、繰り返される内戦の中で数十年経っても「何も変わっていない」憎悪の応酬の中において身の置き所のない人たちに対する思いに満ちた映像であると言えるかもしれません。
『旅芸人の記録』の有名な一場面を見てみましょう。
【一部分上映:旅芸人の記録】
3. オデュッセイ~不在である者、旅する者
さて、アンゲロプロスの映画の本質は、外堀を埋めてしまうと同時に非常にシンプルなものになるということが分かると思います。物語自体は数行のストーリーにすることが出来るかもしれませんが、アンゲロプロスの映画とは、ストーリーに収斂されるものではない感覚や概念、例えば「絶望感とか、孤独感とか、無常感とか・・・」「政治的なもの(意志)と神話的 なもの(運命)」についての映画であることは明らかです。
国境や民族や人の繋がりというものを、説明なしで実感させてくれるアンゲロプロスを象徴するような素晴らしい場面があります。ご覧ください。
【一部分上映:こうのとりたちずさんで】
資料(PDF)へ
例えば、ここから炙り出されてくる問題は、「アイデンティティ」とか「民族(難民)」とかというキーワードですし、映画のタイトルの邦訳を見ていただいても(旅芸人、狩人、船出、 旅人、たちずさんで、ユリシーズ、永遠、旅・・・)明らかなように、アンゲロプロスの映画において、常に人は漂い、探し、越境し、再会していく訳です。
また概念としての「不在」というものが扱われることが多いと思います。『シテール島への船出』 のスピロの人生についてもそう言えるでしょう。スピロの人生もまた、長くギリシャを不在にしてきたわけですし、実在しないことに対して重みが通奏低音のように響いているとも言えます。 『霧の中の風景』での不在の父親探し、『ユリシーズの瞳』での失われたフィルム探し、他の映画でもその主題やモチーフに「不在」が扱われ、「失われた時を見出しにいく旅」が続けられる のです。答えがあってそこに誘導されるのではなく、答えが分からないからこそ探し、漂います。 また、不在にしているからこそ他人から発見されたり、他人から思い出されたり、想像されたりする訳ですから、不在というものは「気持ちや思い」というものに満ちた存在感を醸し出しているのだとも言えるでしょう。
4.長回しと曇天のメタファー~見えるもの&見えないもの
・反モンタージュ
アンゲロプロスの作品は常に長回しが意図的に使用されています。
例えば、溝口の時の長回しは時に沈黙の死んだ時間を含んだ「能楽や狂言」のスタイルと比べられることがあったようです。俳優の演技力に満ちた顔のクローズアップではなく、 「身体性や全体性の中での表現」に繋がっていたり、フィルムの持続が「緊張感の持続」とかにつながっていると言えるのかもしれません。また、細かく説明されるのではなく、長く持続している映像が情感で埋め尽くされていく状況を見ることが出来ます。アンゲロプロスの長回しは、例えば、ストーリーを面白く強調したり効率良く伝えるためのカット割りを利用して(=モンタージュの特徴)擬似的な世界をスペクタクルに再構築するのではなく、そのまま回していることで、(空=沈黙の時間を含めて)私たちが日常に世界に注いでいる視線を支える感性に近いものをリアルに表現しているということが言えるかもしれません。また別の言い方をすると、監督の意図に多義性があり、明確ではない分、長回し映像から観客が何かを読み取る視線を働かせ、映画監督の視線と観客の視線が交流、交錯するということ に繋がっているという言い方が出来るかもしれません。つまり観客を子供扱いせず、観客の 「知性と感性」に、より多くの自由を残し、映画への参加を促しているのだと言えるかもしれません。
いずれにしても、ストーリーや言語化しやすい特定の概念を伝えるのではなく、情念や世界を包み込む情緒が音楽や香りのように醸し出されるのだと思いますし、そういう意味においてはやさまざまな解釈に対して「開かれた」映画であるということが言えると思います。 (・・・香りということでは、『シテール島への船出』では、ラベンダーの香りと腐ったりんごの香りに満ちた映画でもありましたが。)
・水
また、タルコフスキーの映画でも水というのは非常に重要なメタファーとして存在していましたが、アンゲロプロスの映画では湿度と言い換えるべきか、水、雪、霧、・・・が視界を妨げるということがよくあります。
例えば有名な話ですが、『旅芸人の記録』や『シテール島への船出』では、アンゲロプロスは曇天になると映画の撮影を始めたと言うことです。ギリシャ映画なのに、白い雲も青い海も全くありません。快晴を避け、絵葉書のような写真とは風景を避け、ひたすら曇天か雨か雪か霧の中で映画をとったということですが、これは先ほどの長回し映像の効果と同じく、見え難いものを見ようとする行為、見えない世界を知覚(積極的に想像)することと一緒なのかも知れません。
【一部分上映:蜂の旅人・霧の中の風景】
5.歴史(世界と人生)とは何か?
アンゲロプロスの映画を見て考えることがあります。
言い方が難しいのですが、先に歴史が存在するのではない。ということです。我々が歴史年表を見ると、様々な史実が秩序だって並んでいると思いがちです。しかしながら、歴史は年表ではなく、有名な史実だけで成り立っているというものでもありません。例えば、最新作品であ る『エレニの旅』はこれまでのアンゲロプロスとは少し異なったテイストに仕上がっていると言えますが、ここでも歴史上のエポックメイキングな事柄や事項を描いているのではなく、普通にひたむきに生きている一人の女性の思い出や経験や関わりから歴史が描かれています。一 人一人の思いや気持ちの総体が「歴史」という織物を織り成しているのだとでも言うのでしょ うか。
このことは人生においても言え、最初から人生というものが存在するのではなく、あるいは人間が存在しているということは決して物理的に存在しているということではなく、人生というものは人の気持ちや他人の気持ちの中に、思い出の中にも存在する。ということでしょうか?。 先ほど「不在」について考えましたが、「不在」だからこそ人は思いを募らせ、沈黙するからこそ想像し、分かり難いからこそ分かろうとするとも言えるでしょうか。
『イーリアス』も『オデュセイアー』も韻律に彩られながら語られてきました。歴史とは「語られることによって歴史となる」のだということも言えるでしょう。繰り返しますが、それは史実ではなく、ギリシャ神話同様そこには「イマジネーション」や強い願いや思いや夢や期待 というような気持ちが滲み、物語られる歴史となるわけです。つまりアンゲロプロスのカメラ が360度回転してそれで時間が異次元に忍び込もうが、倒れている人が突然歩き出そうが、 30年前の死体から鮮血が流れようが、死んでいるはずの人が船を漕いでようが、語られることによって織り成される物語=歴史という観点からすれば、不思議でも何でもないわけです。
6.レインツリー/樹木
最後になりました。
映画は映像そのものに力があるかどうかということだと思うのです。
タルコフスキーの映画と同様にアンゲロプロスの映画にはたくさんの「雨」と「樹木」が出てきます。フォトジェニックであるとともに、エロチックであったり神聖であったりすると思いますが、そこにそれ以上の意味を見出すのは難しいです。
例えば、思い出すのは「武満徹」と「大江健三郎」です。
水や樹木には、人の感性に直感的に働きかけていく力があると思えます。コスミックとでも 言えるのでしょうか?交信する力とでも言うのでしょうか。人間のそばにいながら、語らずじっと時間を見つめているような気がするのでしょうか?
最後に美しい水と樹木の映像を見て、この映画トークをお終いにしたいと思います。これをきっかけにほかのアンゲロプロスの映画に興味を持っていただけたり、映画そのものの見方に幅をもっていただけたらと思います。
このDVDシアターは来年も開催予定ですが、またどうぞ足をお運びください。
【一部分上映:エレニの旅】