長崎の想い出
2016.1.4
どうも合唱コンクールというものが今一つ好きになり切れないというか苦手と言うか、 考えすぎるというか、当たり前にストレスが高いのです。しかし、本当に好きでない人は逆に何とも思わないでしょうし、本当に苦手な人は紛いなりにも連続して賞を取るようなこともないのでしょう。しかも全国大会で金賞しか獲ったことがない「なにわコラリアーズ」が出場しなくなってから「ひとまずきれいに金賞を並べたい(ねばならぬ)」 というプレッシャーはなくなっているので、気楽に出られるような心持がしていたのですが、実際はそうでもなく、長崎でその原因について分析したのですが、次のようなことが分かってきました。
それは、自分が一音も出さないにも関わらず音楽が進行していくことに対するもどかしさであるような気がしてきたのでした。
つまり、音楽に優劣をつけるのはおかしいというような当たり前の表層上のことを言っているのではなく、こと指揮者という立場の自分のこととして「一音もならさないにも関 わらず」結果が出るという点がもどかしいと思っているようなのです。
恐らく出てきた合唱団の演奏への評価は、指揮者が合唱団を育てたことでの評価なのか、その合唱団の潜在力を出し切ったことで出た評価なのか、合唱団を使って自分の思った音を出したことに対する評価なのか、それとも指揮者とは無関係になされた評価なのか、そのあたりに曖昧性があり、合唱団の演奏に対する評価のどのあたりに自分がおり、どのような面積を占めているのか、(いや「べきなのか」)ということを考えあぐねてしまうということなのです。
学校での教員であれば明確に、「日々献身的に育てた」ことに対する視座というものが存在するのでしょうし、赴任して1年目ならまだしも数年間かけて育ててきた生徒とともに評価を得るということは、限られた制約の中での教師としての立ち位置も含めたも のですから、(また違った苦労とストレスがあるのでしょうが、)演奏結果に対して指導者としての側面にもある程度のウェイトがあるような気がします。しかしながら一般合唱団というものは、天塩にかけたつもりのメンバーを転勤で手放したり、たまたま転 勤等で来てくれた素晴らしい歌い手をありがたく確保することで大きなadvantageを得たり・・・、というのが(全てではないにしても)現状でしょう。つまり、具体的には「外声にどのようなメンバーがいるのか、」ということがコンクール結果を左右する(最重要な要素である)ことは疑いようもなく、だからといって意味がないとかということではないのですが、演奏結果と指揮者としての立ち位置に微妙なストレスを感じてしまう、 ということのように思えてきました。
違う言い方をすると、合唱団を切り盛りするプロデューサーとしての役割と、純粋に音楽と向き合う指揮者としての役割が混在しており、コンクールという他者に分かりやすく結果が出てしまう場面では、結果との相関をどのような態度で見つめれば良い のかを迷うということなのかもしれません。
若くて、毎回の練習をメンバーとともに過ごしていた頃とは異なる立ち回りをする必要の生じてきている年代であり、合唱団として一喜一憂すべき「メンバー」であることと、 合唱団との従属性とは切り離された「音楽家・指揮者」としての側面を併せ持ってしまっている状況が私の現在の合唱コンクールへの個人的なストレスを増幅させてしまって いるようにも感じます。
あの課題曲をそのように解釈しましたか、とか、あそこはあのようなテンポ設計されま したか、という音楽の中身に関しての反応に関しては会話も弾むのですが、「おめでとうございます」とか「残念でしたね」という結果を媒介とする表面的な反応に対しては リアクションに困るのが現状です。そういう意味で、コンクールとの付き合い方を考えなおす過渡期に来ているのかなと感じます。
でも、来年は出ます。
メンバーとともに鳥取を目指すというシンプルな態度で。たぶん再来年も出ます。
私は気分よりも数字を遵守する人なので
さて、昨年は、高松の駅でうどんだけを食べて高松気分を味わいましたが、今年は空港で 「ちゃんぽん」と「皿うどん」を食べて長崎気分を味わうにとどめました。コンクールの 当日、演奏後に地元に帰って別の練習するのは私くらいでしょうか。単に忙しいばかりで はなく、自分の中にある違和感のようなものをリセットしたいという気持ちの表れなのか もしれません。
ちゃんぽん2015 皿うどん2015
P.s
上記のように考えると、私が時に詩を書くことでストレス発散をしていることの理由が明確になりますね。自分の言葉は100%自分の活動であり、自分の責に返ってくるからですね。