そして2022年は行く1

2022.12.31

2020年からの3年間にわたり、あまり文章を書いていないということはコロナ禍と連動したことかもしれません。いや、むしろ合唱活動が低調になり、その時間の中でこれまで読めなかった本を読んだり、見られなかった映画が見るということもあり、合唱漬けになっていた時間に潜伏していた本来的な自分、そうありたかった自分に戻って行けたこともありましたから、書くことは豊富に増えたはずなのですが、それを文章にすることがなかったのは自分のルーズさのためかと思われます。
自身の記憶のために、2022という年を総括しておきたいと思います。合唱活動においては信長先生に大学生のエールソングを作ってもらえた3年越しの東西四連合同(「月光とピエロ」~「響け、彼方へ」)や、3年間持ち越しながらようやく実現した東京混声六連合同指揮(「帆を上げよ、高く」)という特筆すべき出来事もありました。また名古屋大学の合唱物語シリーズでは、ついに私の大好きな「ナウシカア」の物語に曲をつけてもらえるという幸せがありました(みなづきみのり作詞・山下佑加作曲「オデュッセウスの帰還」)し、まだ全曲実現していませんが、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の楽曲に歌詞を入れるという大胆な試みも行いました。松本望先生との「合唱ポップス」が楽譜として出版されたことも、名田綾子先生にバウムクーヘンという歌詞に素敵な曲を付けてもらえたのも今年の楽しい思い出でした。しかし、さんざんコロナ禍における合唱の厳しさとその全面再開を願う文章を書きすぎてきたので、2022年を振り返るにあたっては、いったん合唱の世界から離れて自身の世界を等身大の話題にしてみたいと思います。

2022年は、私にとっては、リオネル・メッシのワールドカップの年ということになりました。もう一つはかつて映画の勉強を少しだけしていた身からすると10年に一度のオールタイムベストをイギリスのサイト・アンド・サウンド誌が行う年であり、その発表をほぼリアルタイムで確認したという年でもありました。

私は、合唱人である以前には、文学青年であり書物を片手に山登りをしておりましたが、最初に入った学校のクラブは小学校時代の演劇部でした。しかし、さらにさらに遡ってみると人生最初の興味はサッカーであり、自ら父親に「サッカーがしたい」とお願いしたのでした。そのきっかけは忘れましたが(釜本選手をテレビで見たのだと思います)、来る日も来る日もタオルを丸めてボールにしたものを部屋の中で蹴っていたので、父親は私を名門「紫光クラブ」(これは現在のパープルサンガの前身とも言うのでしょうか)に連れて行ってくれたのでした。いきなり試合に参加させてもらい喜んだ小学校2年生の私は、その後紫光クラブでサッカーをするためにバスに乗って少し離れた山城高校のグラウンドまで通っていたのです。学年ごとに決められた色だったと思うのですが、黄色い練習用のウェアをとっても気に入っていたことを思い出します。
しかし、残念ながら、その後すぐに右腕の火傷があり、手術や療養で長期離脱してしまいます。加えて、地元に少年サッカー団が誕生(宇多野少年サッカー団)したために、小学校3年生の途中からはそちらに移ることになります。その後のサッカー人生は、周囲の子供たちのやんちゃぶりや、偉そうな振る舞いにみえる先輩たちの存在に気後れしたり、また周囲の子供たちがぐんぐんと成長していくことと、自身が定期的に腕の手術をして離脱していくことのギャップに戸惑い、あまり芳しいものではありませんでした。中途半端なまま4年生と5年生を過ごしたように思います。しかし、先輩がいなくなり、ほぼほぼ毎回の練習に復帰出来た6年生には背番号12をもらい、いくつかの公式戦に途中出場させてもらいました。また監督の配慮からか2部優勝を果たしたピッチにも後半から立たせてもらい、生涯2ゴールという数字で気持ち良くサッカー人生を終えております。
さて、そんな私にとっては、ワールドカップサッカーの存在は幼い頃の自身の興味や憧れの中心とも言え、当時からテレビでの録画放送を見ることを大きな楽しみにしていました。強豪国の西ドイツに従弟がいて、ともにサッカーをやっていたということも興味を拡大させていたようにも思います。ペレとベッケンバウアーが最初のアイドルでしたが、1979年の日本開催のワールドユースは熱心にテレビで見ていたと思います。自分たちが進学する予定の中学校の先輩(柱谷兄弟)が出場しているということもあり、周囲でも盛り上がっていたのですが、アルゼンチン代表で出場していた若きマラドーナのプレーがとてつもなく、胸を躍らせていたことを思い出します。録画ではありますが、リアルタイムで結果を追っていたワールドカップは1982年のスペイン大会でした。ジーコ、ソクラテス、プラティニ、ジレス、ティガナ、ルンメニゲ、リトバルスキー、ロッシ…らの名選手の試合に熱狂したものです。南米贔屓の私は、ジーコ率いるブラジルの優勝を願っていたのですが、試合として忘れられないのはフランス対西ドイツの準決勝です。これが自分自身が見た最高のワールドカップの試合で、いまだにいくつかのシーンが胸に焼き付いています。成人してから、その哲学をバイブルともしているヨハン・クライフを生で見ていないことが残念ではありますが、その後もマラドーナの破天荒な突出ぶりやスーパーな技術に憧れておりました。お金で選手を集めてくることの出来るクラブチームの戦いよりも、国の文化が出やすいワールドカップやヨーロッパ選手権、南米選手権が好きで、4年に一度のワールドカップの決勝戦の視聴を欠かしたことはありません。
で、今年のワールドカップですが、当初よりブラジル対フランスの決勝になることを予測していたものの、アルゼンチンというチームがメッシに勝たせるためのわかりやすい戦術を取っている(若手の選手たちは一丸になってメッシに勝たせたいと思っている)ことに感銘を受け、やはり今年こそはアルゼンチンの優勝を願っていました(出来ればポルトガルとアルゼンチンの決勝カードが良かったが)。
アルゼンチンのワインを飲んでから見た決勝戦では、デマリアの姿があったので興奮を覚えました。8年前のワールドカップで期待されたメッシの相棒でありながら準決勝かで負傷したために、決勝戦のドイツ戦には出られなかったはずです。その戦力ダウンもあってアルゼンチンはドイツを破れなかったのでした。テレビで見ていると、そのデマリアが8年前の悔しさを晴らす如くに目覚ましい活躍をしており、得点まで決めたのでした。そのシーンから胸が熱くなり、途中降板したあともずっと涙を浮かべながらチームの命運を祈っている彼の映像が映るたびに、アルゼンチンに勝ってほしいと願ったものでした。
結果は、ご存じの通り。今更ながら、応援していたチームが勝つという単純なことがこんなに嬉しいことだったんだ、ということに気付ました。マラドーナが選手を終えてからも観客席で、母国の後輩たちを激怒、絶賛、一喜一憂ながらオーバーアクションで声援を送り、得点を決めると旗を振りながら大興奮し、酒を浴び、踊り狂い大熱狂していたシーンを思い出しました。きっと天国でアルゼンチンの優勝を喜んでいたことでしょう。…と、思ってこの文章を書いているときに、サッカーの神様ペレの訃報が入ってきました。ああ、ついにか、と思いましたが。そのペレが12月18日に「おめでとう、アルゼンチン!天国でディエゴが喜んでいるだろう」というコメントを出していたと知り、それはそれでとても胸が熱くなったのでした。

もう一点はイギリスのサイト・アンド・サウンド誌が10年に一度行っている映画のオールタイムのベストテンです。そろそろ発表されるはずだが、と秋口から待ち構えていたのですが、知人から教えてもらいました。私が順位を見始めたのは1982年の発表からですが、前回の2012年に50年間1位の座を守り続けていた「市民ケーン」がその座から陥落し、1位が「めまい」に移っています。今回も「めまい」かな、と思っているとまた1位が変わり、予想外?にも『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディールマン』ということでした。これについては、ジェンダーを意識し過ぎた投票者の選出があったのではとか、という話もあります(女性監督の作品の突然の上位進出)。私は、幸運にもこの映画をコロナ禍に入ってからようやく見ることができました。(そもそも70年代の映画なのに本邦公開は最近)。正直、この順位には驚きましたし、私の中では最上位という訳ではないですが、それでも上位に入るくらいの衝撃を受けていたので、このような結果があったからと言っても理解は出来る気がしています。映画という機能を最大限に使って、解決されることの決してない人生や世界の謎を描いていると思えるからです。
それにしてもベスト10の選出というものは選出者が変わればがらっと変わるわけですし、特に映画など、見たくても見ることが出来るとは限らないわけですから、意味がないといえばないものです。また好きと評価も違うものですね。ただ、誰がどんな作品に一票を投じているかということは個人の嗜好性や人間性まで出るようで、私にはとても興味のあるところなのです。特に映画監督がどんな作品をベスト10に選んでいるのかということを私はよく気にしてみています。なるほど、こういうところに影響を受けたのだろうか、とか、なんだかんだ言ってチャップリンを入れてる!とか意外な側面を発見し人間の幅を感じることが出来るからです。サイト・アンド・サウンド誌のベスト10のことに戻ると、タルコフスキーの「鏡」がじわじわと上位に来ています。私のベスト映画の一つはタルコフスキーの死の直後に映画館で見た「鏡」ですが、当時はタルコフスキーと言っても「ノスタルジア」や「惑星ソラリス」が有名で、「鏡」は訳が分からないという評判でした。ビデオすら出ておらず、発表の年のキネマ旬報のベスト10では影も形もない状態でした。しかし、私は号泣したくなるような感動と衝撃を受けて、映画館を出て淀屋橋のたもとに佇んでいたことを思い出します。そして、「誰も知らず、理解も出来ず、私だけが偏愛する映画」として大事にしてきたつもりだったのですが、前回のベストから上位に顔を出してきました。まるで行きつけの店がミシュランに入ったような、嬉しさと戸惑いと悔しさとの鬩ぎ合いがあって、面白いもんだなあと思っています。(自分だけの作品にしておきたかった)
ちなみに、私の好きな生涯ベストフィルムはまず象徴的な作品として

オルフェの遺言(ジャン・コクトー)

を挙げなくてはなりません。映画という枠を超えて、私のすべてがここにあると感じるものです。そして、私にとっての3人の天使たち。

鏡(アンドレイ・タルコフスキー)
父ありき、(小津安二郎)
恋のエチュード(フランソワ・トリュフォー)

その3人の天使の天使に捧ぐ映画であった

ベルリン天使の詩(ヴィム・ヴェンダース)

でしょうか。あとは、10本に収まらないので、「200本の映画を選出する試みの令和版」を作らねばなりませんが、少しだけ映画の研究をしていた立場から「史上の偉大な映画を選出する」とするのであれば、下記を選ぶかもしれません。たぶんに大作家主義ということになりますが。

小津安二郎「東京物語」
ロベール・ブレッソン「ラ・ルジャン」
カール・ドライヤー「奇跡」
溝口健二「西鶴一代女」
オーソンウェルズ「市民ケーン」
ジャン・ルノワール「ゲームの規則」
アルフレッド・ヒッチコック「めまい」
ジョン・フォード「捜索者」
テオ・アンゲロプロス「旅芸人の記録」
ジャン・リュック・ゴダール「映画史」

でしょうか。歴史的、芸術的価値を評価するということと、大好きということはまた違うものですよね。私は「ひまわり」や「デルス・ウザーラ」「アマルコルド」も大好きということになります。個人的なチョイスをすると、「東京物語」が「父ありき」や「浮草」に代わり、「市民ケーン」が「オセロ」に、「ゲームの規則」が「ピクニック」に代わると思います。すべて抒情的なものが好きなのですね。

と、またこう書いたところで、12月30日の夜になり、すべての仕事や活動を終えてぼんやり見ていたテレビに大感動してしまいました。
NHKのバタフライエフェクト「ロックが壊した壁」です。NHKもこのような番組を作るならばお金を払う価値大ありです。自身の青春期とも重なる大きな現代史のドキュメントではありますが、テーマの設定、時間を再構築していく視座、伏線回収していくドラマ的編集に目を見張りました。「音楽で世界を変えることは出来ないが、音楽には世界を変えるきっかけとなる力がある」ということを改めて教えてくれる番組でした。そして、歴史の連鎖ということ、一人の力は弱くとも一人ひとりのひたむきさの連鎖が歴史なのである、ということを実感させられました。
なるほど、ならばひたむきにしっかり生きねば、と思わせる番組でした。合唱コンクールの結果の一喜一憂などで音楽を語りたくないものですね。メルケル氏の選曲にも、デビット・ボウイの死に際してコメントを出した大人の国ドイツにも拍手。

31日には、出町ふたば→打田の漬物→いづ重の鯖寿司→甘泉堂の羊羹→蛸薬師の大根炊き→永楽屋の干支手ぬぐい→月の桂純米吟醸にごりと樽酒の量り売りを買い、銭湯に行く、という知られざる最近のルーチンで締めくくりました。自由の時代の市井を生きる市民であることに乾杯。