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私の原点  学生指揮者時代の記録 

同志社グリークラブ第3回欧州演奏旅行
(1989年2月〜3月)

2月20〜3月13日にかけて、第3回ヨーロッパ演奏旅行としてスイス・ ドイツ・ギリシャ・フランスを歴訪し11回のコンサートを行った。(同行指揮者: 富岡健)フランスでは、パリのサン・メリ教会にてフランス国立管弦楽団と共にフォ ーレのレクイエムを演奏し大好評を博した。(女声部は現地の女声合唱団「ミモザ」)

(当時の文章)
・・・同志社グリークラブの3回目の欧州演奏旅行は西ドイツ、スイス、ギリシャを回り、 フランス国立管弦楽団との共演という幸運にも浴したパリのサン・メリ教会で幕を閉じ た。今、こうして振り返り、関係者の方々から理想的な演奏旅行だったと言われる時、 3週間の充実した体験がそれぞれの心の中にしっかりと生きていることを実感する。 演奏旅行を通して我々の得たものは計り知れない。格式と伝統のある教会で「本物の響 き」に接することが出来たのは大きな収穫だった。
一般に西洋音楽の合唱の伝統は石の文化と密接な関係があるとされているが、どんな近 代的なホールも作り得ない独特の雰囲気を伴った音と音との響き合いを自分の耳で聞い た時、ただ残響が長いというだけの問題ではなく、ここからポリフォニーやハーモニー が生まれ、西洋音楽の一つの主流が育まれていったのだということを強く感じた。ミサ 曲や宗教曲が、神聖な場所で歌われることによって「なるほど、美しいだけではなく、 やはり強い祈り気持ちに裏付けられた曲だったのだ」と、他の場所では決して感じ得な いことを体験として吸収することが出来た。

また、最も思い出深いのは、ミュンヘンの新市庁舎前での即席コンサートである。石畳 の広い通りの真ん中で大道芸人に負けじと歌を歌いだしたところ、通行人の全てが足を 止めたのではないかと思えるほどの大勢の人たちが我々を取り巻き、嵐のような拍手で 包んでくれたのである。2曲、3曲と歌っていくと、しまいには愉快な老紳士が握手を 求めてきたり、全員が手拍子を打ってくれるなど、大変な盛り上がりをみせた。
訪問した先々で、人々の温かで素直な反応を目の当たりにした。音楽が決して技巧や理 論で成り立っているものでなく、万人の心に宿るものだということを肌で感じた。また、 それが、狭いホールの中だけで生成するものではなく、時間を豊かに彩り、人と人の心 を結びつける魔法の役割を果たすものであるということをあらためて教えてくれた。最 後の演奏会を終えたパリの夜、心の底からの部員の笑顔に、この演奏旅行で得た貴重な 体験が我々をより大きく飛躍させる原動力となることを確信した。

〜1989年5月号「同志社大学通信」より転載


その後の一年
(1989年6月〜)

6月15日、フェスティバルホールにて第13回同関交歓演奏会(伊東は「月下の一群」を指揮)。 6月24日には東京文化会館にて第38回東西四大学合唱演奏会が行なわれた。同志社グリーク ラブは福永陽一郎指揮により、「月光とピエロ」を演奏したが、演奏後、客席で聞いていた 小林研一郎が全速力で駆けつけて来て、「陽ちゃん、凄かった。フルトヴェングラーになっ たんじゃない!・・・」と叫んだという逸話が伝えられている。のちに福永氏自ら「春のピエロ ・・・同志社グリークラブにおける最高の演奏」と評した伝説的な出来映えとなった。(合同指 揮は畑中良輔:ワーグナー・オペラ男声合唱曲集)

7月28日、福島県の平市民会館大ホールにおいて演奏会。

11月3日、フェスティバルホールにて第16回関西六大学合唱演奏会が行われた。同志社グリーは マーラーの「さすらう若人の歌」を熱唱。この年は恒例の六連運動会でも圧倒的な優勝を遂げて おり、関西学生合唱界において「向かうところ敵なし!」という圧倒的な評価を得る。(合同指 揮は富岡健:「ラ・マンチャの男」)
11月5日、大谷ホールにて開催された同志社アニヴァーサリーコンサートに出演した。
12月16日、ザ・シンフォニーホールにて第85回同志社グリークラブ定期演奏会が行なわれた(伊東 は多田武彦「中勘助の詩から」とマーラー「さすらう若人のうた」(福永)を指揮)。指揮:福永 陽一郎氏、ピアノ黒澤美雪により「岬の墓」「ブロードウェイミュージカル名曲集」を演奏した。 最終ステージにおける「飛び出し事件?」により、超満員の観客からはさらに大きな歓声がおこる ほどの大盛況。しかし、福永氏のアンコール「Dixie」が福永陽一郎氏と同志社グリークラブ という最高のコンビネーションでの最後の曲となった。(翌年2月に逝去)
12月24日、京都コンサートホール大ホールにて第25回全同志社メサイア演奏会が行われた。12月26日、 小林研一郎指揮、京都市交響楽団の「炎の第九」に出演。

〜同志社グリークラブ100周年記念誌より


グリークラブフェアウェルコンサートを迎えて
(1990年2月)

高校時代、槍ヶ岳に登り山頂で夜空をふり仰ぎ驚いたことがある。
都会では見られない星空の下で、「僕の人生はこんなに沢山の星に見守られていたのか」という幸福な 思いに包まれた。〜グリークラブ最後の定期演奏会の指揮を終えて会場の拍手に包まれた時、思わずこ ぼれた涙の中に僕のグリーライフの全てがあった。それは技術的な水準とは別の次元で捉えられる「ひ たむきさ」とそれを見守る数多くの温かい「まなざし」を源泉としているのではないだろうか。真剣に 大げんかをし、心の底から感動し、そうしたことが「音楽」という魔術に絡めとられながら自分の中の 確かな時間として生きている・・・。これが僕らの大学生活であり、連綿と続く同志社グリークラブと いう団体の生命なのではないだろうか。きっと僕たちの活動も、先輩や大学や父母や、、多くの眼差し に守られ、励まされ、応援されていたのだ。これからは、常に新しく生まれ変わるクラブ活動に温かな まなざしを注いでいきたいと思う。


〜フェアウェルコンサートパンフより


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