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グスタフ・マーラー〜その時代と音楽〜 <さすらう若人の歌>演奏の前に

音楽は心臓の鼓動から始まる。不安と死への陶酔に向けられた混沌の時代での足音。 「やがて私の時代がくる」と叫んだマーラーの音楽は新たな世紀末を迎えた今、次 々に蘇ってきている。

マーラーは1860年、15人兄弟の2番目の子供としてボヘミアの小さな村に生 れる。しかし、家庭は円満とはいえず父は母に暴力をふるい、彼の兄弟のうち8人 までが子供の頃に亡くなるなど、幼い頃から「悲惨」や「苦悩」「憂欝」「死」と 身近に接し、それを潜在的な意識に持ちながら育ってきたといえる。また、彼自身、 精神的に分裂気質(フロイトの診察を受けている)で、晩年には心臓病を持つなど、 常に死と共存してきた人間であるが、それだけに彼の作品にはいつも「死」の影が 潜み、意識的にそれをテーマとして使ったりアンチテーゼにして音楽を作っている。
庭で元気に遊んでいる娘を眺めながら「亡き子を偲ぶ歌」という歌曲集を作り、 その翌年に娘は本当に死んでしまったという話や、過去の偉大な作曲家が九つの交 響曲を書いた時点で死んでいるということから、それを恐れて10番目の交響曲で ある「大地の歌」に番号をつけなかったという話があるが、マーラーは常に死の不 安を抱きその影に怯えていたように思える。 彼は結局、第10番の交響曲の途中で死んだが、その交響曲のテーマは常に「死」 と「復活」が繰り返されていたのである。(1;3;5;6;7番で「死」、2; 4;8;番で「復活」というように)
「死」と「不安」は彼の人生と作品にとって最も重要なテーマだと思うが、それは 単に彼の生い立ちに還元されることだけではなく、時代との関わりからも大いに語 られるべきことである。時代は世紀末から世界大戦に向かってのどん詰まり、混沌 としたヨーロッパのデカダンスの時代であり、その長大な交響曲には世紀末の退廃 の匂いを一身に背負い込んだような雰囲気が漂う。特にウィーンの退廃は西洋文明 の行き詰まりの象徴ともいえようが、当時登場した芸術家は、エゴン・シーレやグ スタフ・クリムト、ホフマン・スタールなど退廃の中で生き、既存の価値観を破壊 していった芸術家ばかりである。
世紀末芸術のポイントとして私は「死」と「倒錯性」と「東洋への脱却」の三つを 挙げたいが、「死」は従来の価値観が行き詰まったこの時代全体の不安な影として 芸術家全体を覆い、「倒錯性」は、その恐怖からの逃げ道の一つとして病的にも模 索されたのではないかと思う。(マーラーについては倒錯性はとくにエディプス・ コンプレックスの形をとっているように思えるが・・「さすらう若人の歌」にもそ の影が感じられる・・・)三つ目の新たな価値観を求めての「東洋への脱却」は、 単に表面的な東洋趣味というものを越えて、パースペクティブな論理制を超越する ものとして効果を発揮している。絵画でいうと「遠近法」という自己中心的な西洋 の論理制は「唐草模様」や平面的なパターン、「文様」を見出だしたことによって 崩壊し、美術の新しい地平を開く。
マーラーは厳格な古典音楽の規則や慣習を突き破り、今までに無い調性や冗長な形 式を作り出していった。特に交響曲「大地の歌」では中国の詩をテキストにしたが、 西洋的な強拍、弱拍に拘らないリズムの使用や、「死は暗く、生もまた」という東 洋的な無情感の表出など既存の西洋音楽の枠を突き破った表現を見出だしていった。

マーラーが「やがて私の時代がくる」と叫んだのは有名な話である。事実その通り になったのだが、そこには偶然という言葉は存在せず、マーラー音楽への時代の要 求があるからなのではないかと思う。新たな世紀末を迎えた今、西洋合理主義的な モダニズムが行き詰まりを見せ、目的のない不安に満ちた混沌の時代を迎えている が、マーラーの音楽は情感に満ち溢れていながら、時に空虚であったり大爆発を起 こすなど、現代人の感性をさらけだしている。
マーラーの音楽には意味であるとか解釈ということを越えた曖昧さが共存しており、 丁度サーカスでラッパが意味もなく吹き鳴らされるように、楽器が大音場をつくり だしたと思えば突如感傷的になったりする。それもロマン派のように何かの理由が あって(失恋とか)悲しいとかいうものではなく、人生への漠然とした不安や社会 や死に対する曖昧な恐怖感のようなものが源泉となっているのではないかとも思う。
考えてみれば現代に生きる我々も、真剣に生きれば生きるほど漠然とした不安と戦 わねばならない。誰かが死んで悲しいとか、失恋をして悲しいといったことだけで なく、何か人生に対してつかみ所のない不安を感じる社会でもある。モダニズムの 時代のように利潤を追及するとか無駄な時間を省くといったことで満足できる時代 ではない。そんな価値観のはっきりしない混沌の社会であるからこそ、余計にマー ラーの音楽は迎え入れられたのだといえると思う。

さて、「交響曲はハイドンで始まりマーラーで終る」と言われるが、マーラーの音 楽は後期ロマン主義の終幕を飾るとされている。時代背景については先に述べた通 りだが、音楽的な繋がりでいうとブラームスVSワーグナーの後である。(音楽史 は「ルネッサンス音楽」・「バロック音楽」・「古典派」・「前期ロマン派」・「 国民楽派」・「後期ロマン派」と続き、ブラームスとワーグナーの対立期を迎えた。)
マーラーの音楽にはどちらかというとワーグナーの色が濃いとされる。確かに「ト リスタンとイゾルデ」での「死への憧れ」「眈美的な倒錯性」、というモチーフや、 「無限旋律」「調性破壊」などの技巧、外へ外へと向かう強烈な力、といったワー グナー的な精神の発展を思わせる。ただ、一見したその外向きの力とは逆に、マー ラー音楽の内への回帰やナイーブさを見失うわけにはいかない。彼は宇宙を響かせ る第八交響曲を作ったかたわら「嘆きの歌」などの歌曲の作曲家でもあった。また、 彼は様々な芸術や哲学からのアプローチをされることがあるが、その作品の数々は 決して表層的な明晰さを呈してはいない。ゲーテのファウスト第二部を表わした第 八交響曲にも代表されるが、他にもドストエフスキーとの関係やホフマン、ジャン ・パウルとの関係も指摘されたり、後にヴィスコンティの映画音楽として使われ、 トーマス・マン文学の主題とのホモフォニーとして機能するなど、多層的かつ深い 精神性を保っている。それだけに幾重もの時代を通り越しても朽ちないどころか、 むしろ様々な角度からのアプローチを掛けてもその全貌に到達し得ない深さと大き さを持つ。
マーラーを思ったとき、カフカとの類似性を感じたりするのだが、両者とも「難し い」という形容詞を冠して敬遠されるというよりは、むしろ我々の同時代人として、 不可解なまま受け入れられるのではないかと思う。先にも述べたが、現代はいちい ち意味だとか理解だとか理屈を捏ねる時代ではない。不条理や矛盾や目に見えない ものをそのまま肯定し、その中で漂いながら生きていく時代である。トランペット の高鳴りに青春の激情を感じ、弦の不安定なハーモニーに憂欝を感じ、短調と長調 の交錯に入り交じる不安と期待を感じ、不自然なオーケストレーションに社会の喧 騒を感じ、マンドリンの微かな音に夏の夜の孤独を感じる・・・。そうすることに よってマーラーは我々のすぐ側にいるといえるのではないだろうか。そして、その ような情感を保っているからこそ、マーラーは行き詰まった現代音楽より現代的で あるし、この時代最も愛されている作曲家となっているのではないだろうか。


・「さすらう若人の歌」

マーラーの創作活動の二本柱は交響曲と歌曲であったが、「さすらう若人の歌」は 歌曲の代表作であるばかりでなく、交響曲との繋がりを示し、また彼の作品の主要 なモチーフの源泉を含んでいる。(一曲目の歌詞が「子供の不思議な角笛」の中の ものに似ていること。後に交響曲で多用する葬送行進曲が四曲目にみられることな ど。)作曲過程については不明な点がおおいが彼の失恋体験をもとに1883年頃 作られたとされる。最初はピアノ伴奏だったが、ちょうど第一交響曲の作曲過程で オーケストレーションが施され、両者はメロディーを共有するなど互いに連関しあ っている。

・第一曲「彼女の婚礼の日には」
愛しい恋人の結婚式の日の若者の悲しみの歌。三部形式
・第二曲「朝の野辺を歩けば」
野原の美しさを称える明るい曲であるが、最後は寂しげな自分の幸福への懐疑で終る。
第一交響曲の第一楽章と共通の素材による。
・第三曲「私は燃えるような短剣を持って」
恋人を忘れることが出来ない苦しみが一気に激情となって吹き出してくる。
一端途中で弱まるが再び感情は溢れだし、「死」への予感と陶酔を感じさせながら再弱音に消えていく。
・第四曲「君が青き瞳」
彼女の青い瞳が私を迷わせて旅立たせることになった、と歌い、葬送行進曲の重い 足取りの上に旋律が重なる。さすらいを経てやがて清い気分で菩提樹の木陰でまど ろんでいく様子が描かれ、歌詞は夢心地で終るが、再び死の予感に満ち重い足取り のリズムが現れ、苦悩を拭い切れないまま曲が終る。(この部分は第一交響曲の第 三楽章にも現れる。)

マーラーについてはいろんなアプローチの仕方があると思うが、この曲に関してと くに大切にしたいのは若い感情の表出である。詩と音楽の性格からこの曲は青年期 の我々の感情と覆い重なる部分が多い。題名も「さすらう若人の歌」であるが、さ すらいとは、魂の彷徨のことである。
なにを目標にしていいか分からない時期、何かを必至になって模索しようとするこ の時期、いろんな挫折に出会い、不安に包まれ、同じ事を繰り返し、青春の意欲と 世界の不透明さとの矛盾に真理の光を見失うとき・・・そんな時期の複雑な感情の いろいろをこの曲に向かってぶつけてみたとき、この音楽の持つ真の輝きを見出だ し表現する事ができるのではないかと思う。
私が意図するのは子音を揃えることでも、当たり障りのない演奏をすることでもな く、激情と柔らかい感受性を持ってこの音楽に真剣にぶつかってみること、そこで 見出だした何かを自分なりに表現してみる事だ。この時期にしか見出だせないもの がある筈だし、この時期にしか表現し得ないものもある筈だと思う。それを一緒に なって模索してみたい。この音楽を通して一つの豊かな世界に通じる扉を開くこと が出来ればと思う。

1989年秋 同志社グリークラブ団内報に

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