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演劇にまなべ!合唱

よどこんライナーノーツ(2002.11)より

10月の下旬に城陽市の市民参加演劇に合唱指導として関与しておりました。最初はソー トン・ワイルダーの名作「わが町」の中の聖歌隊を指導して欲しいとの話で引き受けたのです が、市民参加にするためにより大きい合唱団を編成することになり、そうなると賛美歌2曲の ために合唱団を編成するのはあまりに無理があるので、その旨を指摘してみました。すると、 驚いたことに脚本自体が日本の田舎町の合唱団の話に書き変わりました。それでも、もとは アメリカの話なので、教会や賛美歌というものがひとつの価値観や生き方を共有するコミュニ ティの象徴であったなら、それを日本の合唱団に当てはめても違和感があると思ったのですが、 今度は自分の口から「教会に変わるコミュニティは日本においては小学校の単位であろう、だ から合唱団は小学校で練習する小学校のOBである方がいいし、賛美歌よりは、例えば木下牧 子の『夢見たものは』の歌詞のほうが、脚本全体を貫徹する(ちいさな幸福)や(一つの愛) というテーマと見事にシンクロする・・・」と言ってしまっていたのでした。脚本は私の発言に 基づいて改訂がなされ、原型をとどめるのは三幕のシリアスなシーン(時間が去って多くの登 場人物が死んでいる・・・、生きている時を振り返って、何気ない一瞬一瞬が幸せであったと悟る・・・) だけとなってしまいました。
という訳で、どっぷりと足をつけてしまった状態で演劇の中の合唱団を指導しましたが、最後 まで拭いきれなかった多くの小さな違和感(無理やり合唱団の話として筋を膨らませてもらった ような部分等に対する申し訳なさのようなもの)はともかく、様々な意図で集まって来られた 市民参加型の意義や、異ジャンルの志向性が交流することの面白さを痛感出来たのでした。
特に、アマチュア参加者の見事な役者ぶりには驚かされましたし、全体的に見て、「演劇」と いうジャンルの、芸術上の優位性というもの(そんなものは「ない」とも言えるが、敢えて含 みを持たせるべく「ある」と仮定?)を痛感しもしました。以下、パンフに載せた私の文章を 転載。

『城陽演劇パンフレットより・・・

「伝えたい気持ちがあるから人前にたつのだ!」
演奏会の前には、必ず合唱団員にこう語りかけてきたように思います。
合唱の練習の度に「もっと演技をしないと、詩の内容を語らないと・・・、演じないと・・・」と言い 続けてきた私にとっては、一般的にアマチュアを中心にした合唱の歌い手が演劇から学ぶことは 本当に多いと考えています。合唱の演奏会でも目をつぶって音楽を聴く人などほとんどいないは ずです。不思議と、音楽そのものよりも、良い表情をしているとか、人の醸し出す雰囲気から音 楽の裏にある気持ちを感じることの方が多いのに気づきます。
ギリシャ演劇とコロスの関係性や、オペラやミュージカルの例を挙げるまでもなく、演じること と歌うことは一つの卵から生まれてきている不可分の関係であると考えられますし、細かいテク ニックやメトードはともかく、もともと「伝えたいこと」があるから、テキストはテキストとし て自己完結するのではなく、役者や演奏者によって魂を与えられ、人を通して観客に伝えられる ものなのでしょうか。
                                                  ・・・以下略』


私の「演劇ちょいかじり体験」は、そのプロセスにおいて演じることや歌うことの原点である 「人間の気持ちの底にある渾然としたものを伝える」ことの意味を問いただす体験でもありました。 と、同時に「もっとがんばらねば合唱人」と痛感する体験でもありました。
合唱において、一人一人が集団の中に埋没してしまってはなりません。「声が溶ける」とか「ピッ チや音色を合わす」という問題とは全く別の観点から、もっと一人一人が「テクスト」に悩み、 「表現」や「芸術」について語る積極性を持たねばならないのではないか・・・?とも思いました。 (もちろんジャンルによる特性はありますが、根源的な気持ちの部分や関与の仕方というスタンス の側面でしょうか)

表現しようという気持ち、人間が心の底に抱えている混沌としたものへの眼差し、それをメン バーでシェアしようという気持ち、それを客席を巻き込んだメッセージにしようという気持ち・・・ これらに欠けては、ステージに立つ意味がないというものです。皆さん、もっとがつがつ、がん がん、「自分たちの音楽」獲得の為に意欲を持っていかねばならないなあと思いました。

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