桃栗3年、葡萄の樹は20年

2018.12.29

京都で教会音楽を勉強するために活動を開始した合唱団「葡萄の樹」ですが、もう20周年ということになります。それまでは、大阪でしか合唱をしていなかったのですが、どうしても地元京都で合唱活動をしたいと思って近くにいた20名のメンバーを集めてスタートしました。(そう言えば、なにコラも20名でスタートしています)
自身が作った合唱団であるだけに思い入れも強く、コンクールに出場するという安易な選択をせずに、教会音楽を中心にしながらも、ルネッサンス、バロック、ロマン派、近代…、イギリス音楽、フランス音楽、ドイツ音楽、東欧、北欧、というふうに順番に音楽の世界を縦横に旅しながら、勉強し、味わってきました。最近では、邦人の作品や委嘱作品にもチャレンジしていますが、そもそも金曜日の夜に練習していますので、スタンスとして「生活の傍にある合唱活動が生活に潤いを与える」ということを目指しているのです。仕事疲れのサラリーマン、主婦、大学生、多少こじんまりとしていますが、葡萄の樹で取り組んできた20年の合唱活動は、地道な私の合唱活動の勉強のと味わいの歴史でもあります。

どうして「葡萄の樹」という名前なのか?とよく聞かれます。表向きには「教会音楽の勉強のため」「聖書の言葉から」という答を用意しているのですが、私が魚のデザインとともに葡萄のデザインが好きなためでもあります。私の好きな喫茶店「珈琲館」も「ソワレ」も葡萄のデザインに取り囲まれていますね。

20年前に作った設立の趣意はいまだに変わりません。

合唱団葡萄の樹HP
合唱団「葡萄の樹」設立にあたって
…「合唱において最も大切なものは?」と聞かれたら、何と答えるでしょう?
発声・耳・ピッチ・姿勢、…いろいろあり過ぎて、質問自体はナンセンスかもしれませんが、私は「想像力」と答えることにしてました。(これは人生においても同じですが)いや、「歌ごころ」と言い換えても良いものなのかもしれません。もちろん、全てに先立って大切なのは「仲間」です。一人で生きられないのと同様、ハーモニーも一人では作れません。つまり、お互いを聞き、意識し合い、お互いの役割があって和音は成り立ち、低い声や高い声という、それぞれの持つ力を出し合うことによって「合唱」は出来ているのでしょう。一緒に「歌える」仲間と時間を持てること。そしてその仲間と一緒になって「うた」という「感情のメッセージの塊」を投げかけることが出来るのはとても素敵なことです。
(一緒にチャレンジする仲間がいるということは何とありがたいことなのでしょう!)
ただ、その中身を音楽的に充実させ、音楽によって満足感の得られる合唱団に育っていくためには大変な努力が必要なものです。合唱の「現在」はどこにあるのでしょう。
学生の合唱団や大型の合唱団が衰退していく一方で、「北欧」や「東欧」の影響も受けて、合唱はますます「様々な形態での楽しみ方」を追求する時代になっているように思います。
その中で私たちは、音の連なりや、ハーモニーの面白さ、あるいはそれを成立させるための手段である「声を出す」テクニックに合唱独自の「面白さ」を追求することを基本にすることになります。しかしながら、私はどうしても、どんなに拙くとも、「表現者である」という観点を忘れたくはありません。換言すれば、我々は技術を磨くことを目標としているのではなく、「音楽」という「芸術=うた=感情のメッセージ」に携わっているということ・・、より深い表現を可能にするための「手段」として技術を磨くのだという考え方を忘れたくはありません。
日常の眼差しの中に情動(エモーション)がなくては音楽が生まれず、生きていくことに苦悩や哀切がなければ、それによって癒され励まされるという感動は生じないでしょう。「芸術=うた」は技術や高尚さや結果の問題ではなく、表現したい欲求と、それを吸収する心の器との呼吸の中に存在するものなのだと考えます。

さてさて、我々は「歌ごころある」合唱を目指したいと思います。
合唱はともすれば、過剰ぎみの技術主義や、逆に単純な困難克服型の全員参加主義に陥ってしまうことがあります。これも要素としては否定しませんし、良いものを手に入れる為には確かに努力をしなければなりませんが、忍耐とか根性とかではなく、また変に生真面目に悩んでしまうのでもなく、少しの「想像力」で明るく幅広く豊かな活動に結びつけていければと思っています。微妙で繊細な「情感」ある演奏、「表情」ある生き生きとした演奏をしていきたいものです。
少ない練習量の中でも常に「表現・表情・情感…」という心の陰影を丁寧に見つめた演奏が出来る合唱団を目指したいと思っています。
一緒に「うた」を楽しみ、感情の呼吸をしながら「合唱」にチャレンジしていきましょう。

合唱団葡萄の樹 第20回演奏会パンフのメッセージはこちら