よどこん20回記念演奏会

2008.12.26

今年の9月15日に淀川混声合唱団は第20回の記念演奏会を終えました。
私が現在最も敬愛する二人の作曲家、信長先生、千原先生をお招きし、 それぞれの曲を演奏すると共に、これから一緒に歩んでいくであろう 北川昇氏の新曲の初演を行ないました。
満員の集客にも恵まれ、我々の活動を支えていただいている多くの人 に改めて感謝の気持ちでいっぱいです。

淀川混声合唱団は私の創設ではなく、私の同志社グリークラブの先輩で 伝説のテノール森さんとその仲間たち(主に高校時代の)で作られた合 唱団です。私の前に指揮をしていたのが、私の二つ上の同志社グリーク ラブの先輩、武内和朋さんで、私はその武内さんの熱心な誘いによって 入団した訳です。
武内さんは、優秀な学生指揮者として活躍されていましたが、それまで のやや野暮ったい同志社グリー全般に対して、スマートな感覚やセンス という新しい風を吹き込まれた方でした。練習にしても、根性?だけで はなく、整理され、具体的で機能性ある方法を用いられたり、考え方も 柔軟な方でしたのでとても尊敬していました。
大学を卒業後は大学院に通うため関西に残留され、その間に淀川混声の 指揮をされていたのですが、地元が大分(日田)のお寺であるため、代 わりに指揮をして欲しいということでした。私は音楽を作ったり、解釈 したり、指揮そのものが好きだったので、「まあ、それならやってもい いかなあ」と思い、同期の山本君とともに入団した訳です。(当時20 数名かな)

私自身は、幼い頃から歌も音楽も好きで(音楽だけは学校の成績でも5 しか取ったことがない)、エレクトーンに通ったり(これはあまり上達 せず)もしていましたが、本格的な合唱は大学時代から始めたので(高 校時代、一般合唱団へわざわざ単身で第九を歌いにいったことはありま すが)、一般的な混声合唱そのものの経験も乏しく、当初は試行錯誤ば かりでした。当時の同志社グリークラブのように「立派な楽器揃いで、 練習では全員集まっていて当たり前、モチベーション低いものは去れ」 という状態の中で練習をするわけではないので、音楽を作るとか、自分 なりの解釈を通して表現を工夫するとか、そういうこととは別の課題 (人をどうやって集めるか、練習時間をどう作り出すか、時々いない パートもあるのをどうするのか、合宿だけきた人にも何とかオンステ してもらわねば、)という次元での格闘でしたし、私自身の仕事との 折り合いもあり、当初は本当に大阪を遠く感じたものでした。

・・・淀川混声合唱団の第20回演奏会の後、打ち上げの席では「よどこ んの20回のあゆみ」を振り返るスライドが上映されたりしてました。 もちろん今のメンバーに創設当時からいる人はほとんどいない状態で、 最初の10回のことを知っている人もほんのひと握りなのですが、ス ライドに昔の姿が映ったり、懐かしい話題が披露されると大賑わいで した。千原先生や信長先生も当然のことながら最近の私や最近の淀川 混声のことしかご存知なかったので、その歴史やプロセスでの苦労話 には新鮮な共感をしていただいたようでした。

積もる思いをここで書き綴ってもつまらないものですが、武内さんか らバトンを受け取った私の「よどこん」への気持ちの切り替えの転機 は、要所要所での森さんの励ましであったように思います。(京都の 西のはずれからは大阪が遠いので、よく前の晩から宝塚の森さんの家 に泊めてもらっていたのです)
合唱団の練習参加もまばらで、京都から出てくる私の中でもやや荷が 重く感じだしている時期があったようで、それを見透かされたように、 鍋を食べさせてもらいながら、「無理させているようだったら、合唱 団解散しても良いよ」と言われて、はっとしたものでした。瞬時に我 に返り「いや、頑張ります」と答えましたが、何かのせいにして、全 力を発揮せず、どこか持て余している状態で人前に立ってはならない と思ったものです。

創設者や頑張ってきてくれた気持ちに思いを馳せ一念発起した後は、 ともかく「どんな場面でも全力を尽くす(練習参加者が2人だろうが、 3人だろうが、ものすごく下手だろうが、嘆くくらいなら練習する)」 ことが私の役割と言い聞かせてきました。私自身が季節ごとに練習案 内をはがきに印刷して全メンバーに送っていた時期もあります。練習日 の朝に、片っ端からメンバーに「今日は練習来てね」と電話をしていた 時期もあります。コンクールでもしばらくは賞にも入らず、重い気持ち を封印してその翌週を気分転換の遠足に充てていた時期もありました。 「さあ、これから」という時に、中心メンバーが東京転勤になったと いうことは、本当に数え切れないほどありました。

1年1年や1回1回の練習が大変で、20回目を迎える頃なんて全く想 像出来ない・・・、と思っていた訳ですが、要所要所での励ましを受け、 何とか20回まで一生懸命の歩みを続けてくることが出来たのでした。 20回目の演奏会を終え、その都度励ましてくれた仲間や、その時々の 練習風景画が浮かんでは消えていきます。考えてみれば、順調でも平坦 でも何でもなく、いろんな思いとドラマと歴史の刻まれた歳月なのでした。

もっとも、私も「よどこん」も、まだまだ何かを成し遂げた訳でも、高 みに辿り着いたわけでもありません。そのような思い出に浸るのはさら に20年後に置いておくとして、今は一瞬たりとも感慨に浸ることなく、 今より少しでも良い第30回を目指しての一歩目を歩み出したいと思って いるのです。