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よどこんライナーノーツより抜粋・フェアウェルコンサートと再会(02.03)・演劇に学べ!合唱(02.11) ・視線について(03.03) ・歌うということ〜NCコンサート(03.05) ・無責任な立場で合唱を考える(04.01) ・大江健三郎と話した!(04.05) |
演劇にまなべ!合唱よどこんライナーノーツ(2002.11)より
10月の下旬に城陽市の市民参加演劇に合唱指導として関与しておりました。最初はソー
トン・ワイルダーの名作「わが町」の中の聖歌隊を指導して欲しいとの話で引き受けたのです
が、市民参加にするためにより大きい合唱団を編成することになり、そうなると賛美歌2曲の
ために合唱団を編成するのはあまりに無理があるので、その旨を指摘してみました。すると、
驚いたことに脚本自体が日本の田舎町の合唱団の話に書き変わりました。それでも、もとは
アメリカの話なので、教会や賛美歌というものがひとつの価値観や生き方を共有するコミュニ
ティの象徴であったなら、それを日本の合唱団に当てはめても違和感があると思ったのですが、
今度は自分の口から「教会に変わるコミュニティは日本においては小学校の単位であろう、だ
から合唱団は小学校で練習する小学校のOBである方がいいし、賛美歌よりは、例えば木下牧
子の『夢見たものは』の歌詞のほうが、脚本全体を貫徹する(ちいさな幸福)や(一つの愛)
というテーマと見事にシンクロする・・・」と言ってしまっていたのでした。脚本は私の発言に
基づいて改訂がなされ、原型をとどめるのは三幕のシリアスなシーン(時間が去って多くの登
場人物が死んでいる・・・、生きている時を振り返って、何気ない一瞬一瞬が幸せであったと悟る・・・)
だけとなってしまいました。
私の「演劇ちょいかじり体験」は、そのプロセスにおいて演じることや歌うことの原点である
「人間の気持ちの底にある渾然としたものを伝える」ことの意味を問いただす体験でもありました。
と、同時に「もっとがんばらねば合唱人」と痛感する体験でもありました。 表現しようという気持ち、人間が心の底に抱えている混沌としたものへの眼差し、それをメン バーでシェアしようという気持ち、それを客席を巻き込んだメッセージにしようという気持ち・・・ これらに欠けては、ステージに立つ意味がないというものです。皆さん、もっとがつがつ、がん がん、「自分たちの音楽」獲得の為に意欲を持っていかねばならないなあと思いました。 |