自由な立場で無責任に合唱を考える
〜そして私は何をしたいか・・・ということについて(その1)
よどこんライナーノーツ(2004.01)より
大学会館ホール(ハーディホール・・・4月からオープンいたします)にコンサート
用ピアノを入れる為に、興味もあったので仲介業者と共に自ら某社のピアノ工場まで
選定に行ってきました。コンサート用のピアノが一台一台異なった音がするというの
は分かり切っていることではありますが、選定作業の中で、まったく同じ型番のピアノ
を4台並べて聴き比べ、それが思った以上であったのには改めてびっくりいたしました。
ピア二ストが呼ばれ、営業関係者、技術関係者、仲介業者、等々が注目して見守る中、
私の一言で高額取引が成立する状況でしたが、こちらの耳が試されているような気がし
てとても緊張してしまいました。ピアノに番号を振り、ピア二ストにショパン、モーツ
ァルト、ベートーヴェン、プロコフィエフ、あと不明の現代曲・・・等を4台のピアノで
弾いてもらったのですが、低音の鳴り方、高音の分離感、倍音や残響の残り方・・・音の
硬さとか柔らかさとか・・・、こんなにも違うものかと改めて感じました。(・・・私はとも
すると演奏の方を聴いてしまう傾向があって、音が鳴るたびに「いかんいかん、ひたす
ら音を聞かねば」と自分に言い聞かせたものでした・・・)。どれを選ぶといっても好みの
問題であり、面白いのが、「ショパンなら3番だけどモーツァルトなら1番の方が音立ち
が良い・・・、」という印象を受けたことでした。結局、音の性質が2つの傾向に分かれて
いたので、やや硬質な音のピアノを2台残し、その2台で決戦をする?という形態をと
りました。最後にはファーストタッチの音の飛び方で決めてしまいましたが、前半に落と
した柔らかい音色のピアノのうちの一台がとても品の良い音で忘れ難く、優劣ではなく一
つ一つの楽器の持つ個性を改めて体感した次第でした。
1)
さて、合唱団にもそれぞれ個性的なサウンドがあります。
わが国のコンクールの仕組みではこれらを「横に並べて序列をつけてしまう」ような傾向
がある訳ですが、実はこのことは合唱界の閉鎖性を助長しているのではないかと考えるこ
とがあります。本来はこのピアノの選定でも分かるように、音楽のジャンルやカテゴリー
によってポテンシャルの発揮の仕方が異なったり、サウンドの優劣ではなくサウンドの個
性と演奏解釈へのアプローチを尊重した音楽活動が展開されるべきではないのかなと思う
のです。もちろん、コンクールは真剣だけどあくまでも遊びなんだ・・・、という理解と割り
切ったスタンスで臨めば、中高生や大学生の合唱活動の中にそれなりの利用価値はあるのだ
と思いますが、一面的な価値を重視し過ぎると、逆に合唱音楽の豊かな展開を阻害する要素
にもなりかねないと考えています。
しかしながら、このようなコンクールの存在を長きに渡って合唱界全体が容認している
背景には、ここでわかり易い目標値や測定値(ものさし)を持つことによる参加者側、受
け取り手、主催者側の「思考停止の気楽さ」というものがあるのではないかと思ったりし
ます。個別団体の活動はともかく、合唱界全体はコンクールに一定のレベルの測定や維持
向上を委ねているのであって、これがなくなったとしたら、ではどうやって音楽を展開さ
せ、全国の合唱団同士の連帯感を創出し、合唱文化の裾野を広げ、レベルを高めていける
のでしょうか?身内に「よかった」と言って貰えることによる自己満足を乗り越え、音楽
と向き合い格闘し、成果を味わい、表現し、喜びを分かち合うことが出来るのでしょうか?
つまりこれらのことについて考え、試行錯誤し、リスクを承知で意志決定していくという
エネルギーを使うよりは既存のレールの中で事態を推移させたほうが圧倒的に妥当性が高
いのだという心理が働いてしまっているのではないかと思うのです。
合唱も合唱連盟も営利を目的とするわけではないですから、実社会のようなシビアな局
面には鈍感で、改革には時間を要するものです(大学もやや似ている)。しかし、このよ
うなことは合唱人口やコンクールにおけるレベルの高次化を言い訳に、文化としての合唱
の空洞化や表現活動としての合唱の未成熟さを放置してしまうことにもなりかねない、と
危惧いたします。
(・・・もちろん、現在のところ全国大会に出場しつづけている私がこのようなことを述べて
も、やや矛盾していると思われたり、なかなか耳を傾けてもらえないのですが、私のような
レベルでは、コンクールのあり方が疑問だからといってコンクール出場を辞めたところで、
何事も変わらないのであり、現状のルールの中でもうしばらく出場して勉強することと、こ
の構図を俯瞰して変革したいと思う気持ちは別々に存在する訳です。・・・)
では、何をどうするべきなのかと考えた時、最初に思いつくのは、合唱コンクールの隔
年開催(コンクール常連の有力合唱団はコンクールが無い年には何か別の表現、発表の場を
考えるのではないかと思う。)や、音楽ジャンル別の合唱コンクールの開催です。(今年は
ロマン派、来年はバロック、その次はフォークロア・・・という感じで、ジャンル特有のアプロ
ーチが研究されたり、音楽の多様性の理解に繋がったりする。)これらのことは仕組みに関
与することなので、自分がどういう活動するかということ以上に実は有効な手段だと考えま
す。
しかしながら、表層の形態の改革ではなく、根本的なことに言及いたします。
2)
例えば、戦後民主主義から高度経済成長期、日米安保からバブル期に至るまで日本の社会が
生み出してきたものについて考えます。
○中央主義、競争主義やピラミッド型構造を助長する「会社組織」
○それを支える「主婦層」というカテゴリー
○競争力の養成を影の柱にした管理的画一的教育としての「学校教育」
上記の3点はいずれも戦前はまだ一般化されなかった概念であり、これらが互いに密接な
関係とバランスを保ちながら、半世紀近くの日本社会を支えて来たように思います。合唱と
いうものは、日本においては非常に歴史が浅いものですから、現在の合唱文化(合唱界)が
依拠しているのはこの半世紀の歴史的社会的文脈ではないでしょうか?
○一番を目指すコンクールを中心とした展開
○それらを支えるPTAコーラス、おかあさんコーラス
○先生が一方的に絶対的な権力を握る中学・高校合唱
しかしながら、皆さんご存知のように、現実の日本社会はバブル経済崩壊前後から大きな
変化の兆しを見せ始めています。情報化やグローバル化による価値観の多様化、フェミニズ
ム、ファジー理論、・・・今ではベストテン番組も無くなり、四番でピッチャーを憧れとする野
球神話からJリーグへ・・・、コンピューターは大型ホストからネットワーク型さらにはモバイ
ル化しておりますし、教育における個性の尊重や双方向性の導入等、日本社会はうろたえた
ような極論への揺さぶり的?変化も含めて、近代日本を形作ってきた価値観から、よりフレ
キシブルで多様な価値観へと試行錯誤しながらシフトしていることは間違いありません。
私はこの傾向と変化に対して、合唱界の依拠している歴史的社会的文脈から離れ反応しな
いと「時代に合わない」のではないかと主張したい訳です。人々は、合唱団を横に並べて1
位を決めることのナンセンスさや、そのことが音楽の持つ豊かさとほど遠いことに気付いて
きています。人々は、お母さんで組織される合唱団のお母さん大会に「お母さんらしさ」を
求めること…つまり、音楽ジャンルとは無関係にカテゴライズされ、ステロタイプ的に型に
はめ込んでしまう表現活動の無邪気さの「支配」に対して違和感を感じ出しています。人々
は、無条件に先生を信奉し先生のタクトに服従してしまう「構造」を孕んだ中高生の合唱への
取り組みの限界を予感し、疲弊しだしています。
(・・・もちろん以上のことは、合唱界を構造的に一般化して述べているのであって、否定して
おりません。個別には素晴らしい合唱団や指導者、演奏、活動があることは言うまでもありま
せんし、上記の中に大きなメリットや成果があったことは事実です。誤解なきよう・・・。バラ
ンスや程度やウェイトの問題でしょう。)
なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?
それは、合唱発祥の地である西欧と比べれば良く理解出来ます。
キリスト教圏では「人々は神のために歌い」その為に「クワイア」が組織されてきたとも言え
るのですが、我々にはその大目的が希薄であったり自覚に乏しい(無いとは言わない)為に、日
本の近代化の概念の中から別の便宜的な目的を代用してきたからではないでしょうか?
時代の変化と依拠してきた文脈の脆弱さを自覚し、今こそ我々は歌うことの目的を再定義、
再確認し、歌うことにまつわる環境を再整備していかねばならないと考えるのです。
3)
上記構造の改革を想定した時に着手しなくてはならないことの一つは、児童合唱の見直しだと
思います。ウィーン少年合唱団の爆発的な影響力(と思われる)によって一時期流行した児童
合唱団への取り組みは、小子化や時代の変化と共に衰退しているようにも思えますが、児童を
取り巻く環境が大きく変わった今こそ梃入れの時期かもしれません。換言すれば、導入期から
の意識改革が合唱観を根幹から変革することになる・・と言うべきでしょうか。
幸いなことに?学校土休制の導入は、「公」の限界を「民間」で補うという観点に立てば、近
所付き合いのなさやクラス固定的な学校教育を補完し、いわゆる「ギャングエイジ」や「チャ
ムエイジ」の意図的な創出に適しています。学年横断的であるコミュニティの創出は画一的に
括られるクラスでの陰湿な「いじめ体質」へのスパイラル的な閉塞感を是正し、リーダーシッ
プや他者への思いやりを創出する機会を与えるとも考えています。合唱はもちろん一人で出来な
いものですから、連帯感や一人一人の役割の大切さ、かけがえのなさについての意識や情緒を
定着させるに適した芸術表現ではないかと思います。
コミュニティ形成を重視した児童合唱を盛んにすることで、時間をかけて合唱界の構造はもと
より、文化芸術を涵養・享受する環境としての地域社会を改革をしていけないかと思うのです。
もちろん児童合唱団の陥りやすい罠もあって、例えば、子供たちが特定の先生の信者になって
しまって、それ以外の指導者を受け入れないという閉鎖性を生み出すことがあります。指導者
は音楽本来の面白さや仲間の大切さを教える為のの裏方であって、魅力的でないよりはいろん
な意味で魅力的ではありたいですが、団員を拘束するよりは、むしろ様々な価値観と触れ合う
機会を意図的に創出しなくてはなりません。
その為には、組織と仕組み作りの中に、他の児童合唱団はもちろん、学校や市・地域コミュニ
ティが関与することは有効かもしれません。また、発想を展開すると、他のジェネレーション
との交流が何より有効な気がいたします。例えば有効なブリッジ先として考え付くのが「大学
生」です。すでに大学生ボランティアの小学校教育への関与の有効性がいくつかの事例で証明
されておりますが、それらのことを組み合わせると次のような仕組みを夢想することが出来ます。
○地域の伝統文化に関心を持ちながら歌と親しむことを目的として少年合唱団を創設。
○地域がバックアップし、大学生が指導に来る。
○大学生は指導していくなかで合唱の持つ喜びや指導の難しさを体感しステップアップ
○大学生の演奏や一般合唱団の演奏を少年合唱団やその親が応援。
○地域で大切にしていくべき民謡や旋律の掘り起こし、作曲家等との関与。
○民間の合唱団を学校の音楽教育の中に導入。
ここに最近低調な企業メセナやスポンサーの考えを絡ませられるでしょうか・・・。
やや羅列的ではありますが、要するにスポーツ少年団を中心とした地域コミュニティや、生涯ス
ポーツへの公共の関与と同様に、児童合唱団と生涯教育を中心とした地域コミュニティを再創造
していく・・・という発想です。一時期の児童合唱の隆盛期には、地域コミュニティを巻き込むロジ
カルな哲学よりは、ファッショナブルな西欧音楽への妄信的な傾倒に突き動かされていたように
も思います。
キーワードを踊らすわけにはいかないですが、私はコミュニティ全体の関わりを十分に理解した
環境を整えることにより、歌う目的と歌う喜びに対する理解や意識を自然に身に付けられる合唱
を育てていけないかと思うのです。
その原点回帰へのエネルギーが、優劣を競う合唱の陥る狭隘性を回避し、音楽と合唱の持つ多様
性を自覚させるのではないか…、歌い手と一般社会(地域コミュニティ)との関係を再構築する
過程で音楽文化を成熟させることに繋がるのではないか・・・と考えている訳です。
・・・以上は私の中で抱えている夢想・・・、机上の空論ですが、一つの期待は2005年に京都
で開催される「世界合唱フェスティバル」です。この催しの前後で、がらっと合唱を取り巻く価値
観が変わることを期待しています。「こんなにも多様な表現があったのか」「こんなにも多様な楽
しみ方があったのか」「こんなにも面白い曲があったのか」・・・「今までの合唱活動を見直さねばな
らない・・・」そういう感慨の余韻の中に、京都に新しい少年合唱団をプロデュースすることが出来な
いか・・・などと、ぼんやり考えたりしております。
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