映画を巡るいくつかの思い1989「耳」の創刊準備に寄せて
映画は映像における感性の呟きである。恋人の目くばせのように何がどうという
のでもないのだが、ある一瞬の映像に過剰なまでの親しみと、相手を信じたくなる
ような思いを持ったとき、人は映像に対する感性を持ち得たと言えるのではないだ
ろうか。映画はイデオロギーでも演技力でもない。映像から喚起される最も大事な
感情は、言語や思考から無媒介的なものでなくてはなるまい。風景を見るように映
像に心を傾け、時間の中を漂うように映像の中に心を溶かし込むこと。暗闇の中に
逃れ、映画と自分の小さな時空を抱き締めること。映画が映画であるためには、解
体された風景の中に必ず詩が注ぎ込まれていなければならないのだ。
最初の記憶は、七歳の頃だ。「大いなる幻影」を見たとき…時を潜り抜けるとつい
昨日のことなのだが、そのタイトルの文字との間には夢幻の時間が生成されるよう
な気がする。戦場の可憐な花。ハーモニカの音の忘れ難さ。没落していく貴族につ
いては何も分らなかったかもしれないが、ロッテのために二人で作ったクリスマス
ツリーの灯の暖かさと美しさは永遠に忘れられない。 東京の夜を彷徨ってふと見付けた映画館の明りに逃れるようにしてヴェンダースを 見た時、その魂の行き場のない空虚さと、映像が醸し出すあいまいな匂いに真の理 解者を見出だす思いがした。その場から永久に動きたくないという思いに映像の移 ろう時間が重なり、映画を見ながら、あと少しの時間で映画館から出なけれならな い悲しさに涙が溢れてきさえした。ヴィスコンティを初めて見た時は、最初の老朽 船の映像だけで、眩暈のような衝撃を受け、「自分の新しい世界がここにある」と いう確信に、目の前で扉が開かれる思いがした。「鏡」の少年を見ながら「この場 面は遠い昔の自分の記憶の中にはっきりと残っている」と思うと同時に、小津の映 画を見ながら、いつかこの時間この感覚を思い出す…という予感にとらわれる。… 映画と共にあった自分の時間は作品の外部であると共に作品の内部なのではないか。 映画という作品の独自の記憶など存在しない。人生の中を漂うある一瞬が、風景か らの囁きを受け止められる暗闇の中に存在したのだという認識こそが作品の記憶な のである。
いや、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
映画を前にして私のとる態度というのは、従って、目をむいた批評でも、かたくな
な沈黙でもなく、あるいは、回顧趣味的な溜め息でもなく…適当な言語とまなざし
によって映画の記憶と戯れることである。水玉の雨傘をくるくると回すような何気
なさで映画を呼び出し、忘れたふりをしながらふとタイトルの名でも呟いてみたく
なるのである。
映画のことを考えると夢のような時間と空間が溢れ出してくる。映画と結び付いた
自分の時間と共に作品が記憶の中を漂うと、そのイメージの中に自分を投じる。そ
んな時、いつも夏風に翻る白いレースのカーテンを思い出したりするのだ。映画は
瞳を通して心に通じる…。まなざしを介して時間と戯れる…。映画は論理も思考も、
全て昇華された次元で世界を映し出す芸術である。我々にとって必要なのは、やは
り風景を収めるまなざしと、映像の呟きを聞き取る感性、光を反射する心の鏡、そ
して、暗闇の孤独な時間を抱き締める感情なのではないのだろうか。 |
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雑誌「耳」掲載 〜1990年頃〜・映画を巡るいくつかの思い・1989ベスト・ワン「恋恋風塵」 ・黒澤明の純情 ・200本の映画を選出する試み1 ・200本の映画を選出する試み2 ・200本の映画を選出する試み3 |