1989ベスト・ワン「恋恋風塵」〜映像への回帰〜1989「耳」創刊号に寄せる
「人生有情」…小川紳介に出会った侯孝賢は、メモ帳にそう書くと自分の胸と彼の胸
を指して深くうなずいたという。「恋恋風塵」はそのような映画であった…。
映画とは、詩のかけらであり映像のつぶやきである。変わった言い方をすると、詩人
が言語を不自由だと思うのと同程度に、映画作家は四角いスクリーンを不自由だと思
う。しかし「映画の本質」とはまさにその「映像」そのものの中にある。世界に「ま
なざし」を向けたことによって捕えた水面の波紋のような感覚をどういう映像で表現
するか、理性では割り切れぬ曖昧な匂いをどう映像にするのか、映像からどういった
呟きを溢れさすのか…。それが映画の持つ課題であり魅力でもある。 私が小津や成瀬を好み、また高く評価するのは彼等がそういった瞬間の言葉にならな い感情や理性で捕え切れない曖昧な気持ちを「映像」において表現し得ているからで ある。「晩春」のラストでりんごを剥く笠の姿から溢れてくる感覚は何か。…それは 「疲れた」とか「悲しい」といったような単純な形容詞でもなければ、「家族制度の 崩壊」云々というメッセージでもない。汽車の中のシーンの行きどころのないような 浮遊感、エレクトラ・コンプレックスのエロチシズムさえ感じさせる寝床のシーン。 「父ありき」で何気ない状況から明確な理由によらず、ただ父への愛情の深さゆえに 涙を零した少年。「浮草」のぎこちないまでに不器用なキスシーン。それらを捕える 映像からは、無限に反射する豊かな感情と時間や空間を混ぜ返す曖昧な匂いが溢れ出 る。「乱れ雲」の最後に降る雨は何を語ったと言うのか。この映画とて特にドラマチ ックな筋立ては何もなく、通り一遍の人物設定が最後の雨の中で最高の緊張感へと高 められる。その雨を捕える美しいシーンの中で男女の道ならぬ恋のどうしようもない 悲しさだけでなく、時間の中を漂う二人の思い合う気持の言い様のない辛さやそれを 慰める感情とが入り交じり、思考とは無媒介的な「匂い」として胸を締付ける。それ らは全て言葉で説明できる内容とは別の…つまりその映像を作り出す「まなざし」の レベルでの心の「共震」とでもいうべきものではないか。
映画の本質的な部分はそこにある。
ウッディ・アレンのインテリぶりよりも、ルノワールのふざけた話の解放感溢れる映
像のほうが刺激的であるし、マカヴェイエフの主張よりフェリーニのサーカスの方が
人の感情を大きく煽るのだ。何が言いたいのかというと、「映画」の命が決してその
内容の文学的、哲学的価値にあるのではないということ、 小津は、確かにカメラをローアングルに据え同じような話を同じ様に撮った。どの作 品を見てもドラマチックな展開は少なく、家族の中の話を抑制を装ったスタイルで撮 っている。しかし、小津の評価されるべき点は決して、「日本的」とか「庶民的」と か「禅的」とかいうレベルで捕えられるものではない。その神話からの解放と造型的 な深さについては、何も今更私がいきり立って論ずることもあるまいが、一言だけで 述べると、その映像の持つイメージの豊かさが真に映画的であるということである。 小津の作品には物語の進行とは直接に関係のないレベルで、電信柱や、踏切や、煙突 や、鯉のぼりの映像が挿入されたり、誰もいない部屋や階段が映し出されるというこ とがあるが、その時、映像は理性に働き掛ける伝達手段ではなしに、「映画」として の独自の表現を作り出している。
誰もいなくなった部屋は「娘が嫁に行った」という意味的な概念を提示しているので
はなく、そこから「失われていった豊饒な時間」や、移ろう人生の匂い、時間へ注ぎ
込む愛情を喚起させる。まなざしを一致させる二人の後姿から、愛情を注ぎ込む刹那
とその時間がやがて消えて行くであろうことの予感や多層的な時間の交錯を感じさせ
る。小津のまなざしに守られて全ては画面の中に生きづいているのだ。これが同じ大
船の凡作になると「花にとまる蝶」=「田舎」=「のんびりムード」という半ば記号
化された映像表現に終始してしまうことになるし、また「桜の木」=「日本的季節感
」=「情緒」という決まり切ったイメージしか与えない映像になったりするのだが、
小津の映画では、何気ない日常のものを独特のまなざしを注ぐことによって、はっと
するほど美しい映像や、慕わしかったり、言葉にならない感情を思い起こさせるよう
な映像に仕立られている。同じ内容で同じ様に風景を撮ったところで他の誰がこのよ
うな豊かな感情を溢れさせる事ができるのか。
さて、話は随分周辺をさまよったが、侯孝賢の映画「恋恋風塵」の魅力は以上のよう
な文脈のもとに語られる。決して、アジアの素朴な風俗に引かれたとか、台湾でもこ
んな映画が作れるのかという驚きや、風景が綺麗で人々に共感がもてるからとかいう
ような安易なレベルで魅力を感じたのではない。俗なことを持ち出す事になるが、監
督の侯孝賢はオランダのロッテルダム映画祭が88年に行ったアンケート「明日を担
う世界の映画作家」でも ヴィム・ベンダース、ジム・ジャームッシュについで第三
位に名を挙げられるなど台湾映画のニューウェーブの旗手である。この映画の魅力は
まさにその感性豊かな映像と、それを簡潔に間違いなく繋いでいく彼の映画作りのう
まさにあったと言って良いだろう。
この映像のことを「深みある美しさ」「ノスタルジックな映像」とでも評したいが、
それは名曲アルバム的な美しさとはほど遠く、単に昔の物を思い出すという感覚とも
掛け離れている。…美しさと言えば、青年ワンを見送りにいく老人と孫の後ろ姿をゆ
っくりと追い掛けるシーンの美しさをどう表現すればいいのだろうか…湿った空気の
曇り空の中を線路ぞいに歩いていく三人を捕える画面…その風景のスクリーンへの収
め方、それを見詰めるまなざし…映像から喚起されるイメージは、「別れの辛さ」と
いう単純な言葉では捕えきれない微妙な感情の交錯であろう。…お互いの貧しさと肉
親への愛情をいたわりあうゆえに気まずくなった雰囲気ののしかかるような悲しさに
耐えきれず、ホン(ワンの恋人)がブラウスを脱ぐシーン…内容の説明とは正反対な
この映像の醸し出す感覚は思考では捕えられず、思わず抱き締めたくなるような「映
像の匂い」を沸きたたせる。そしてまた、このような映像への回帰は時間のもつ叙情
的な側面を素朴に表現し得る。出稼ぎ先から青年が故郷へ帰るとき、カメラは無人の
町並みを捕え続けるが、小津のピロー・ショットにも似たこのシーンが単純なフラッ
シュバックよりノスタルジックに「人生」や「時間」への哀惜の情を感じさせ、画面
の中には監督のまなざしに守られた世界が永遠の時を刻んでいる。…そのあたりにこ
の作品の本質的な素晴らしさがあると言っても良いだろう。
さらに述べたいのはその世界観であるが、パースペクティブな論理性とか対立的な倫
理感とはほど遠い「すべて肯定」という情感の作用の促しは、瞳を心から離さない。
作品において、生も死も、出会いも別れも、苦しみも楽しみも…全てが肯定的に風景
のように描かれ、我々はそれをそのまま心で受け止めればいい。そういうとライの映
画を思い出して「東洋的観念」とか山奥での生活なんかを思い浮かべてしまいそうだ
が、むしろ東洋的・西洋的というロジックを越えて「保守主義的」ともいえるような
世界観だと言いたい。世界は侯孝賢のまなざしで捕えられたとき「風景」に変り、そ
の映像が「匂い」とか「雰囲気」といった曖昧さで時間を包みながら心に働き掛ける…。
この「映画」の「映像への回帰」は単なる造型的な冴えでもなく、演出された素朴さ
でもなく、間違いなく頭に掲げた監督自身の言葉へ還元されているのである。 師走を前にした11月の日曜日、去年「都会のアリス」を見た同じ映画館でこの映画 とこの言葉に出会った。 |
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雑誌「耳」掲載 〜1990年頃〜・映画を巡るいくつかの思い・1989ベスト・ワン「恋恋風塵」 ・黒澤明の純情 ・200本の映画を選出する試み1 ・200本の映画を選出する試み2 ・200本の映画を選出する試み3 |