Keishi Ito Homepage 〜目をひらく 耳をすます つぶやく〜 


 大学の課外教育〜パネリストとして・・・(1/4)

07−03 2007.10.12

● 学生補導から学生支援へ

同志社大学では、2004年に「学生部」から「学生支援センター」という部署を 改組転換したのですが、改組転換の段階で、今後学生支援がどうあるべきなのかと いうことをセクションでかなり議論いたしました。また、私自身は、ここ9年くら い学生支援の業務に携わっておりまして、その中で学生部的なセクションが大きく 変貌していくプロセスを目の辺りにしてきました。その辺の経験から、一般的な大 学の課題ではないかなと思われること、あるいは本学での取り組みの中で成果のあ ったことなかったことを含めてご紹介させていただきたいと思います。

最初に考えねばならないのは、今大学はどうなっているのかということです。当た り前のことなのですけれども、課外活動とか学生支援を突き詰めて考えていきます と、「大学とは一体どういう機関なのか、何をするところなのか」というところに 戻っていくと思っております。

【1】大学は今どうなっているのか?
 ○エリート教育段階
  →ユニバーサル・アクセス段階
  →ユニバーサル・アテンダンス段階
  (モチベーション・基礎能力の問題
  →大学が付与すべきもの変化せざるを得ない)
 ○高等教育機関→公教育的な側面の増大

例えば、その昔大学が一部のエリートのための高等教育機関として存在していた 頃…つまり、ごく一部のモチベーションの高い人たちが大学に来て何か目的を持 って学問に没頭したという時代から今は全く様相が変わっています。また、その 少し後の世代、いわゆる学生運動や大学自治の時代とも異なってきております。 我々学生部の先輩を見ましても、昔は学生に対して補導とか、取り締まるという ことがメインで、学生が暴れたら恰幅の良い学生部職員が走っていく…、という ようなことが中心であった時代の話をよく聞かされたりしました。
現在はその発想も全く変化し、学生を補導するのではなく学生を支援するのだ、 というような発想になってきているのですが、その背景にはまず大学は今どのよ うになっているのかということの事実認識がいるのではないかと思っております。 私などは、全入時代を控え、もはや大学は高等教育機関というものではなく、公 教育機関的な側面が増大しているのではないかと思っております。つまり、社会 に出るまでの最後の教育機関としての責務が大学の中に発生してきているのでは ないかということです。

【2】大学生はどういう教育を受けてきたのか?
 ○ギャングエイジ、チャムエイジ、
  ・父性の欠如(父親の平均帰宅時間等)
  ・少子化(従兄弟も近所の子も少ない)
 ○ピアエイジ(=実質的に中高受験教育)
  ・記憶力と集中力、克己心の修練中心

● 今の大学生は、どんな育ち方をしてきたのか

今の大学生が、小・中学校をどのように育ってきたかということを考えてみましても、 全てが短絡的な因果関係があるとは思いませんが、少子化の影響も大きく、近所で子ど もたちが遊んでいてガキ大将がいるというような時代ではない時代を経験してきている ということがあると思います。また、現代の学生生活も、決してマージャンをしながら コミュニケーションを取っていた時代ではありません。コンビニ、ワンルームマンショ ン、メールだけで終わり、下手をすると誰とも一言もしゃべらずに一日が過ぎていく時 代でもあります。

最近学生としゃべっていて面白いというか、なるほどと思うことがありました。
学生から「携帯がなかった時代、学生同士はどのように連絡を取り合っていたのです か?伊東さんはどうやって友達に連絡を取っておられたのですか?手紙とかですか?」 と聞かれました。「いや、僕の時は家に普通の電話があってそれにかけてた」と言うと 「電話を家にかけたら、お母さんとかお父さんとか出られるんですか?。で、呼んでも らわないといけないのですか?それはちょっとかなわないなあ・・・」というような話を されて、びっくりするというか、なる程と思ったのですけれども、それ一つ取っても今 はダイレクトに携帯で友達と連絡を取る時代です。
ひと昔前ですと、間にお父さんやお母さんが入って、緊張して敬語を使ったり、逆に世 間話があったり、そういったコミュニケーションの広がりのような場面がそこかしこに あったのでしょうが、現代はそういった時代ではないのだという認識がいると思うのです。
と、言いますのも、学生部関係の会合に出させてもらうと、結構嘆き合戦のようになって しまうことがあります。「最近の学生はまったく話が噛み合わない、こんなことがあった」 「うちもそうなのです」という話で盛り上がり、だんだん「昔は良かったのに」という ような嘆き節になっていくことがあります。もちろん、私だって嘆きたくなることはあり ますが、嘆いているだけではなく、むしろ状況の変化を受け止めてそれに対して何をして いくべきなのかということに我々自身が関わっていかないといけないのではないかと思って おりました。

 【3】大学とはどういう場所であるべきか?
 〜大学教育を受けてきたものの資質(例)
 ○批判的思考力、問題解決能力、差異の認識力
  意思決定能力、コミュニケーション力、
   自己の尊重、公共心、市民性
  →大学の中で付加して(成長させて)社会に送
      り込むという役割

● 大学とはどういう場であるべきか?

では、大学とはどういうところであるべきかということです。アメリカの論文等 には明言されています。これは一つの例ですけれども、「論理的・批判的思考力」 「コミュニケーション能力」「差異の認識力」「問題解決能力」「市民性」「意思 の決定力」「リーダーシップ」「公共心」・・・そのようなものを大学で獲得してほ しいということです。これは、専門学校ではない大学に対して、世間一般からも期 待されていることではないかと思います。そういったことを身に付けた上での学問 と言いますか・・・、大学を卒業したものとして、一定の人間的・社会的資質が身につ いているとして、大学生は社会に出て行くのではないかと思います。

そうだとすると、正課授業や授業教室の中だけでなく、大学生活の中でたくさんの 資質を身につけていく、身につけさせていく努力をしないといけないのではないか と思います。そしてこれらのことは、それ以前ですとたぶん勝手に身についていた ことが多かったと思うのです。
2004年に学生支援センターが発足しましたけれどもそれと時期を同じくして1 か月前に学生の全学自治組織が解散するという象徴的な出来事がありました。以前 は何か問題があると学生の自治会が立ち上がって大学に抗議をしたり、意見を表明 してきました。また、そういう学生団体同士の関わりの中で自発性やいろいろな社 会性のようなものが養われていた可能性が高いわけですね。私の言葉で言いますと、 自生していた自主性と言いますか、野草のように生えていた社会性と言いますか、 そういうものがあったのだと思いますが、今はやはり失われていっているのだと思い ます。そのかわり、ちょっと水をやったり、雨が激しかったら屋根の下にいれてやっ たりしながら・・・、もちろん自分の力で成長しないといけないのですけれども、ちょ っと手をかけてやりながら育てていく自主性というものが増えてきているのではない かと思っております。

ちょっと話が広がりすぎましたので、まずは同志社大学の正課外教育、課外プログラ ムの取り組みから紹介したいと思います。いくつかのパターンで行なっております。
課外教育のことを言いますと、今でこそいろいろなプログラムに対しての理解が得ら れて、こういったことを大学で取り組んでいるのは当たり前になってきているのです が、例えば7、8年前に学生部でこういうことをするのだと言うと、「大学生にまで なってなぜ大学がこんなに手をかけないといけないのか」という議論が必ずありまし た。なかなか理解を得られなかったというのが事実だと思います。

続く・・・

          
Copyright(C) Keishi.Ito All rights reserved