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 美しき水車小屋の娘

14−3 2014.2.26

ヴンダーリッヒ 少しわけがあって、いまシューベルトの連作歌曲「美しき水車小屋の娘」 の楽譜(テキストを中心にしながら)全20曲をつぶさに読んでいると ころです。
考えてみれば、私が最初に好きになった作曲家はシューベルトでした。
子どもの頃家にあった「子供のための名曲アルバム」のようなクラシック のレコード!に入っていたシューベルトの「野ばら」(日本語)が大好き で毎日のように聞いていたことがあります。小学校2年生の頃のことでし ょうか。ちょうど、私が親戚の結婚式で歌った歌が大評判を取り、親戚中 のみんなに「素晴らしいボーイソプラノ、ウィーン少年合唱団の少年みた いだね」と褒められるので、歌が好きになったのと(子供を褒めることは 重要ですね)ウィーン少年合唱団への憧れもあり、ます、セレナーデ、魔 王、菩提樹、等…分かりやすいシューベルト歌曲が大変気に入ったもので した。学校の図書室で偉人伝のようなものを立て続けに借りて読んでいた のもその時期で、ベートーヴェンやシューベルトのことを知るにつけ、特 にやさしく薄命であったことへの憧憬のようなものも含めて、いろんな人 に「尊敬する人はシューベルト」と言っていた気がします。
さて、「美しき水車小屋の娘」については、その後青年期にフリッツ・ヴ ンダーリッヒの名盤やフィッシャーディスカウの定盤を聞いてきておりま すが、特にその内容を深く考えることもなく聞き流していたジャンルの曲 でした。今回楽譜を手に取ったのは、もちろん私が歌うためではなく(笑) 、テキストを研究するためなのですが、当時の時代背景を調べつつ、ミュラ ーの詩を横に置き、ドイツ語の辞書を引き引き全20曲に目を通しており ました。当初、なんとなくこの自分勝手で内気過ぎる若者と、何の罪も ないのに悪い娘とまで言われる娘との関係に皮肉でも言いたくなるような 時代錯誤的当惑も感じていました。何しろ、娘のことを勝手に好きになっ て、娘の気持ちを確認することもなく、他者に惹かれていく娘の態度に失 望して死を選ぶのですが、そこには神話的な普遍性や、逆に必然的なドラ マ性のようなものが欠けているのではないかとも思ったりしていました。 しかしながら、じっくりと読み進んでいくに従って、やはりテキストであ る詩の言葉の一つ一つから、純粋で繊細な若者の気持ちの変化のようなも のを感じ取り、その心地に同化していくような錯覚を持ちました。やさし さとその裏返しである極端な(凶暴性が内側に向く)感情の揺れのような もの…、経験の不足から何もかも上手く解決出来ないままやすらぎである 死を願う方向に導かれていく様子が、非常にリアルに読み取れてきました。 やはり、シューベルトが音に表したくなった気持ちも分かりますし、シュ ーベルトのような作曲家にしか出せないピュアな感覚であろうと思いまし た。何より、剥き出しの実利や欲望より品性を尊ぶ芸術的態度を可能にす る時代精神のようなものに深く感動したところです。
かつて、少し読み齧っただけで文学青年を気取っていた頃、好きだった文 学者にヘルマン・ヘッセがいたことも思い出しました。(「ガラス玉演 戯」まで一応全ての長編小説は読んでいるが「シッダールタ」と「郷愁」 とが特に好きだった。)よく考えると文豪ゲーテを始祖ともするかも知 れないロマン派の時代、憧れのようなものをもって旅することで魂を磨 き人生修行をしていく若者たち(ワンダーフォーゲル)の時代、つまり 近代への萌芽の時代ですが、他方で青年は傷つきやすく、その傷は魂の 一番奥深いところに達することがあることが痛いほど分かります。
憧れや真実を知ろうとすることの精神の尊さと、流れる美しい川の音が 絶え間なく聞こえてくる名曲なのでした。

P.s
マーラーの「さすらう若人の歌」の混声合唱を練習した経験値から申し 上げますと、この内容の繊細さについては男性にしか分かり得ない感覚 なのかもしれませんがね。

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