黒沢明の純情

「夢」を描く黒沢はある意味で自らの映像的感性の特徴をさらけ出してしまっている とも言える。 誤解を恐れずに言うなら、この映画を見るかぎり黒沢は決して一流の映像作家には思え ないし、ある種の歯痒ささえ持ってしまう。それはあくまでもメロドラマを見事な感性で映画にしてしまった成瀬巳喜男を一流の映像作家と呼ぶこととは逆の意味において…。 あるいは、その芸術的技量の高さとは別の次元において。

黒沢の映像感性を抑圧してしまっている要素は、彼の持つ「演劇性」の色濃い過剰な台詞と、同様に様式化された造型性であろう。もともと彼は「映画」をシネマトグラフとして捉えるのではなく、その「活劇性」を存分に引き出していった作家であった。「姿三四郎」では既にその要素が現れ、風、嵐、砂埃、雨…など黒沢の好きな主題が映像の 中に登場してきている。「七人の侍」「用心棒」「隠し砦の三悪人」「椿三十郎」…、 活劇のなかで黒沢は映像の持つ動的な躍動感を思う存分発揮してきた。しかしその中で見落とせないのは彼の持つ「観念性」であろう。それは映像的というより、より演劇的、 絵画的な芸術的素養に裏打ちされているのである。

黒沢は「白痴」において、徹底的に外面的なドラマや類似性を無視することでドフトエ フスキーの観念的な要素を見事に表現した。「蜘蛛巣城」ではついに「能」の表現様式を取り込むことによって、中世的な「情念」を映像の中に凝縮して表現することに成功 した。そして「乱」は、絵巻として荘厳な孤高を保っているが、その映像的魅力のほと んどの部分を占めているのは「能」の、あるいは「ギリシャ演劇」の造型性であり、美術としての精神世界の描写である。しかし、また逆に「どん底」や「どですかでん」を 私には中途半端にも感じるメルヘンに陥れてしまっているのも映像の芸術としての意識より、映像の中で芝居をみせようという意識が抜け切っていない点にあるのではないかと思う。

黒沢の映画作りの現場はもうすっかり有名になってしまったが、彼は俳優に徹底的にリハーサルさせ、迫真の精神状態で芝居をすることを強要する。また三船に代表されるよ うに半ばどなったような発声を使って芝居をさせ、芝居の中には「表現」を込めてしまおうとする。しかし、そうすることによって芝居は、「自然」な身振りを越えて、ある種の様式にぴたっと当てはまってしまうことがある。それが「乱」のように徹底的に意識された表現として確立してしまうと、「これはもう映画ではなく新しい芸術ジャンル なのだ」と言うことも出来るのかもしれないが、例えば「影武者」においては、様式美にも役者の演技にも映像的感性の硬直性を感じずにはいられない。「どですかでん」で の役者は必要以上に台詞を喋り、画家がモデルにポーズを取らせるように、黒沢が役者の動きをポーズの連続に規定していく。映像はもはやなまめかしい動きを忘れ、また世界があるとき持つ言葉にならないはっとした瞬間を捉え得ずに、映像が、台詞が、すべてを「説明」してしまおうとするのである。

「夢」は「こんな夢をみた」と題して、8つのエピソードがオムニバスに展開されていくという変わった趣向の作品である。

中ではルーカスの協力を得てハイビジョンを使用するなど奔放な若々しい精神を見せているが、一言でいうと過剰な言語が「夢」というファンタジックなテーマを描くことを妨げている。あるいはまたそういった面白さを黒沢自身が狙ってはいなかったのだということも出来るかもしれない。

狐の嫁入りの舞踏的な「おかしさ」と不可思議な現実性、葬式行列の祝祭的感覚の他、川の流れの美しさ、桃畑の美しさ、など「さすが」とおもわせる箇所は随所に見付けることが出来た。トンネルを使った漆黒の映像や音響を使った緊張感、戦争にいった兵隊の情念を凝縮したような第4話など誰にも真似できないパワーを持っているし、ハイビジョンのゴッホの絵の中を駆け回る映像もなかなか洒落ている。しかし、どうして桃畑の花が散った後、「環境保存」について一席ぶたねばならないのか…「原発反対」と、 プラカードを掲げたような台詞をもうけなければならないのか…「人間はおろかだ」と か「自然を守れ」とか、まともに話すのが面はゆいようなメッセージを正面から説明してしまうのか。そういう点に疑問と不満を持たずにはいられない。

「夢」を見ているはずの黒沢は、あきらかに覚醒しており、美しいものをあらかじめ決められた様式の中へ押し込めてしまったような窮屈さが、その題名とは裏腹にこの作品からある種の「かたさ」となって出てきてしまっているのである。
吹雪の中の「風」も「雪」も、実際の「凄さ」に迫ろうとするばかり、ある計算され た枠の中に映像を押し込めてしまう。むしろ、「黄金狂時代」で見せたチャップリンのはりぼての雪は、映像の中に「雪」のイメージをもっと自然に宿らせてはいなかったか …ルノワールの「草の上の昼食」で吹いてくる魔風の方が「風」のイメージを自然にフ ィルムの中に宿らせていた筈なのである。

「夢みるような」感覚は、仮にそれが黒沢の意図ではないにしても、「夢」を撮ろうと 身構え、様式の中に美を押し込め、身振りの中に表現を凝縮させたこの作品の中には感じられなかった。幻燈を見るような観念性であればフェリーニ、現実を研ぎ澄ませて感性 の無限反射をみせてくれたということなら成瀬巳喜男やトリュフォーの映像に、曖昧な身悶えするような、あるいは心地好さに思わず眠ってしまいそうな映像の魅力があったのではないのか。

映像のポエジーとは、ある瞬間に受けた言葉にならない思いを映像の中で反射しかえすことである。そして、その反射の仕方が、無限であればあるほど、詩人は豊饒な世界を持っていると言えるし、強烈であればある程、大きな力を持っていると言えるし、微妙に揺らめいていればいるほど、繊細であるといえるにちがいない。
侯孝賢の「悲情城市」において、言いなずけである主人公の二人が、レコードを鳴らし ながら、紙に文字を書き合って対話をするときの、あの匂いたつような感情をたたえた映像は、なんと豊饒に繊細に暖かいまなざしを風景に送っていることか。光の具合、映像の持続時間など、決して言葉に出来ない感情を映像からわきたたせる彼の才能は、映像を使った詩人としては極上のものである。

アンゲロプロスが「霧の中の風景」で見せた、あの白い雪がちらちらと舞ってくる時の映像の「寒さ」ほど寒い映像があったろうか。俳優の演技力ではなく、その映像の湿っぽさと、白と黒のコントラストの妙が、温度としての寒さでなく心までこおらしてしま うような「寒さ」を映像から感じさせるのである。彼等は、ある瞬間に対する感覚に長けていただけではなく、それを作り出す能力に秀でているのである。

黒沢はあいにく映像に対する詩的な感性に長けてはいなかった。むしろ巨匠というレッテルを気にすることなく、活劇的な動きを映像に取り込むことだけ考えていればよかったのだという意見にも納得することは出来る。しかししかし、それにしても…そんなことで黒沢を無視してよいのだろうかという思いがしたのが私の本当の感想である。「乱」が海外に受けたときには「エキゾチシズムが受けただけ」と、黒沢をこき下ろし、才気ある若手を擁護することによって、黒澤神話に躍らせられないことをアピールしていた評論家が山ほど登場した。そして「夢」はおおむね、その硬直した感性ゆえに評論家の嘆きの対象になってしまう。それは確かに理解できるし、その通りだとも思う。

しかし、そんな事だけで片付けてしまうことは出来ないという思いがこの映画を見て一通りの批判的感想を述べ尽くした後で、込み上げてきた。この映画を見て素直に感動する部分があったとしたら、それは全編を通じて流れている彼の映画に対する思いではなかったろうか。どこだというわけでもないが、黒沢の持つ希にみる「純情さ」にこの人を馬鹿にすることは絶対に出来ないという強い思いを持ったのである。

この「純情さ」とは映画に対する純粋な情熱であり、これを通してなんとか自分の思いを伝えたい、自分の思い描いた世界を作り出してみたいという、芸術的技量から離れた純粋な気持ちが「ひたむきさ」となって伝わってきた。第一話で、母親の突き付けたナ イフがきらりと光る場面…雨上がりの野の向こうに虹がさっと掛かっている場面…決し て上出来だとは思えない。もっと自然で印象深い映像があっても、という思いを抱いた。 ケン・ラッセルの虹の方がまだ良かったな、とも思った。しかし、「こういうのをやりたいんだ、やりたかったんだ」「こういう映像を作ってみたかったんだ」という子供っぽいがひたむきな思いが伝わってくるのはどうしてなのか。「桃畑」で雛人形たちが優雅に舞い始めるとき、「この美しさを映像で捕らえてみたかったんだ」という、映像に込められた純粋な思いに涙が零れそうにさえなった。ゴッホの麦畑にしても、水車のある風景にしても、「こういう映像を…」という黒沢の胸の中で暖められ続けていた思いが、結果としての映像美とは別の次元で心を捉える。

例えば映画的センスに満ちた監督がいるとして「べつに題材は何でもよかったんだが」 といわんばかりに才能を振り翳しながらそこそこの映画を撮っているのを見るのとは正反対の思いが、そこでしたのであった。

このことは一体なにを物語っているのだろうか。

映画に込められた純情な思いこそ、今最も無視されがちなものなのではないかということである。「斬新な」映像、つなぎのテンポ感、台詞のオブジェ化…映像に対する柔らかい感性を持った作家は続々と登場している。日常の光の中から溢れ出た「瞬間」を捕らえることの出来る作家はおそらく黒沢よりも器用に映像を繋ぎ、絵画的造型性から写真的身振りへ要素を移行させることで、「夢」を黒沢の観念の中から解放することが出 来るだろう。メッセージ性を薄めることで、「夢」の奔放性をもっとファンタジックに 描くことが出来るだろう。しかし、黒沢はあくまでも黒沢であった。「醜聞」で病気の少女を「お星様のよう」と言い、「すばらしき日曜日」でお客に向かって「拍手をお願 いします」と呼び掛けさせ、「生き物の記録」で放射能が怖いとノイローゼになってし まう老人を描き、「どですかでん」で相変わらずの「人間模様」を取り上げた黒沢は、 天才的な感覚だけで映画を取り続けたオーソン・ウェルズとは正反対に純情である。そ こまで映画を信じるのかといわんばかりに…。しかし、その純情さは感覚の「鈍さ」で はない。なぜなら芸術の衝動は何かを表現したいという欲求をもって初めて力を得るの だから。感覚だけで現世のうつろいを表現するような最近の類のものではなく、映画の力を信じ、「こんな気持ちを伝えよう」「この美しさをカメラにおさめてみよう」という思いが感じられた作品が黒沢の「夢」だったのである。

この作品がやっぱり傑作であるとか、どうしようもない駄作であるとかいうことはしかし最終的にはどうでもいいようなことであって、この作品の映像の端々にこめられてい た純粋な情熱は素直に私の胸を打った。あの桃畑の美しさ、ゴッホの機関車の汽笛…「前からやりたかったんだよ」と言わんばかりの映画に対する少年的な愛情…これが「夢 」に結晶していた。

黒沢の次回作は「八月の光」…前の作品よりちょっとでも良いとか、悪いとか、若手の作家の感性と比べてどうだとか、いくら金が掛かったとか、海外でどうだったというような事ではなしに、「どんな映画ができるんだろう」という興味が、黒沢の次回作を待つ最も正しい態度ではないか、などと思ったりもするのだ。