1989ベスト・ワン「恋恋風塵」~映像への回帰~ 1989「耳」の創刊号に寄せる
「人生有情」…小川紳介に出会った侯孝賢は、メモ帳にそう書くと自分の胸と彼の胸を指して深くうなずいたという。「恋恋風塵」はそのような映画であった…。
この映画の魅力をどう語ればいいのだろう。しばしば見受ける「小津的」という表現を使うならそれは本質的な意味においてだ。アラン・レネが小津へのオマージュとしてモザイクのような「ミュリエル」を作ったということや、黒沢清が小津映画のモチ ーフを用いながら映像を組み立てたりしたこととは、語られる次元が違う。また今村が小津の弟子であるといった信じ難い話とは正反対の意味合いにおいて考えられるべきだと言ってもいい。
むしろ「映像への回帰」とでも言いたいその「まなざし」が、小津、成瀬、という「 映像の匂い」を描き得た作家たちと同系列に属し、そのカットから沸き立つイメージ が「映画の未来」を信じさせるという意味において「小津的」なのである。
主人公は、恋を失った青年であるが、映画はそのドラマチックな物語ではない。ここで語られているものは、台湾の社会的状況への問題提起でもなく、現状批判でもない。 描かれたのは彼を取り巻く人と風景だ。じいさんや、ばあさんや、電車や、信号や、 路地裏や、山や空…映し出されたものの全てが表情豊かに語り掛け、様々な感覚を溢 れさせる。悲しかったり嬉しかったり…そういう単純な形容詞では捕え得ない繊細な 感情が映像の中から喚起される。その「世界」をみつめる「まなざし」の確かさが何 気なさを装って捕えられた風景の中に感じられ、そこに注がれた溢れんばかりの愛情 が抑制を装った画面の中から感じられる。そういう意味においてはこの侯孝賢が「小津的」と評されてもおかしくはなく、そのことは「映画の本質」と深くかかわり、また同時に、映画の豊かな可能性を模索する、という彼の持つ稀有な才への評価を示しているのだと言ってもよかろう。
映画とは、詩のかけらであり映像のつぶやきである。変わった言い方をすると、詩人が言語を不自由だと思うのと同程度に、映画作家は四角いスクリーンを不自由だと思 う。しかし「映画の本質」とはまさにその「映像」そのものの中にある。世界に「まなざし」を向けたことによって捕えた水面の波紋のような感覚をどういう映像で表現 するか、理性では割り切れぬ曖昧な匂いをどう映像にするのか、映像からどういった呟きを溢れさすのか…。それが映画の持つ課題であり魅力でもある。
エピファニーとでも呼ぼうか、…ある瞬間がある。バルトに言わせるならプンクトゥムを発見した瞬間、偶景…。その光景、その感覚、その瞬間をまなざしで受け止め得るものが詩人であるが、ヴェルレーヌはそれを言葉で、ドビュッシーはそれを音楽で表した。懐かしい匂いを感じたとき…「郷愁」の感情が生まれるが、もっと研ぎ澄まされた「心の鏡」に反射されたならそれは「蝶のような私の郷愁」と書かれることになり、逆さまに描かれたロバの瞳によって表現されることになる。
私が小津や成瀬を好み、また高く評価するのは彼等がそういった瞬間の言葉にならない感情や理性で捕え切れない曖昧な気持ちを「映像」において表現し得ているからである。「晩春」のラストでりんごを剥く笠の姿から溢れてくる感覚は何か。…それは 「疲れた」とか「悲しい」といったような単純な形容詞でもなければ、「家族制度の崩壊」云々というメッセージでもない。汽車の中のシーンの行きどころのないような 浮遊感、エレクトラ・コンプレックスのエロチシズムさえ感じさせる寝床のシーン。 「父ありき」で何気ない状況から明確な理由によらず、ただ父への愛情の深さゆえに涙を零した少年。「浮草」のぎこちないまでに不器用なキスシーン。それらを捕える映像からは、無限に反射する豊かな感情と時間や空間を混ぜ返す曖昧な匂いが溢れ出る。「乱れ雲」の最後に降る雨は何を語ったと言うのか。この映画とて特にドラマチックな筋立ては何もなく、通り一遍の人物設定が最後の雨の中で最高の緊張感へと高 められる。その雨を捕える美しいシーンの中で男女の道ならぬ恋のどうしようもない悲しさだけでなく、時間の中を漂う二人の思い合う気持の言い様のない辛さやそれを 慰める感情とが入り交じり、思考とは無媒介的な「匂い」として胸を締付ける。それ らは全て言葉で説明できる内容とは別の…つまりその映像を作り出す「まなざし」のレベルでの心の「共震」とでもいうべきものではないか。
映画の本質的な部分はそこにある。
ついでだから述べるが、例えば映画が溢れさせるエロチシズムとは決して、美女のヌードが頻繁に登場するからとか、それらしい内容が語られるからではない。そのことは、しばしばトリュフォーの映し出す映像が、どんなその手の映画よりもエロチックであるということから語られてもいいし、美少女シャルロットの危うい映画よりブレッソンのドミニクサンダの冷たい身のこなしの方がよっぽどぞくぞくするというところから話されてもいい。また、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で、少し可愛い娘を迎えた男二人の彼女を取り巻く映像は、恋愛と無関係に見えるストーリーとは 別の次元で、匂い立つ微妙な感情を溢れさせるが、映画とはまさにそういうものでな ければならないのではないか。映像の表現の仕方によってある種の感覚を呼び起こさなければならないと思うのだ。
同じような意味合いで、何かの思想を訴える、あるいは読み取らせる映画があって悪いわけではないが、映画は最後まで「映画」の言語で語られなければならない。この国の現状を見ろ、とかこの人々を見ろ…というような事でも、映像言語を用いずそれだけが売り物の映画は、映画の伝達メディアとしての特性はつかんでいても「映画芸術」の分野とはほど遠い。「いい映画ね、考えさせられちゃったわ…」というような批評はその裏返しとして、マネの絵を題材が娼婦であるからという理由によって黙殺した人々を思い出させさえするのである。
ウッディ・アレンのインテリぶりよりも、ルノワールのふざけた話の解放感溢れる映像のほうが刺激的であるし、マカヴェイエフの主張よりフェリーニのサーカスの方が人の感情を大きく煽るのだ。何が言いたいのかというと、「映画」の命が決してその 内容の文学的、哲学的価値にあるのではないということ、
…また、語られるストーリーや役者の勘違い的な演技力でもないということ、…その映像から立ち上ぼるもの、その映像の集積の中にあるということである。
生き生きとした空気がルノワールから、ライラックの香りがフォードから、季節の風がロメールから感じられたとき、我々は純粋に映画を体験したといい、そのイデオロギー的な意味付けではなく、画面から溢れ出る狂おしいまでの愛ゆえに、ブニュエルを偉大だと思うのである。
小津は、確かにカメラをローアングルに据え同じような話を同じ様に撮った。どの作品を見てもドラマチックな展開は少なく、家族の中の話を抑制を装ったスタイルで撮っている。しかし、小津の評価されるべき点は決して、「日本的」とか「庶民的」と か「禅的」とかいうレベルで捕えられるものではない。その神話からの解放と造型的な深さについては、何も今更私がいきり立って論ずることもあるまいが、一言だけで述べると、その映像の持つイメージの豊かさが真に映画的であるということである。 小津の作品には物語の進行とは直接に関係のないレベルで、電信柱や、踏切や、煙突 や、鯉のぼりの映像が挿入されたり、誰もいない部屋や階段が映し出されるということがあるが、その時、映像は理性に働き掛ける伝達手段ではなしに、「映画」として の独自の表現を作り出している。
誰もいなくなった部屋は「娘が嫁に行った」という意味的な概念を提示しているのではなく、そこから「失われていった豊饒な時間」や、移ろう人生の匂い、時間へ注ぎ 込む愛情を喚起させる。まなざしを一致させる二人の後姿から、愛情を注ぎ込む刹那とその時間がやがて消えて行くであろうことの予感や多層的な時間の交錯を感じさせ る。小津のまなざしに守られて全ては画面の中に生きづいているのだ。これが同じ大船の凡作になると「花にとまる蝶」=「田舎」=「のんびりムード」という半ば記号化された映像表現に終始してしまうことになるし、また「桜の木」=「日本的季節感 」=「情緒」という決まり切ったイメージしか与えない映像になったりするのだが、 小津の映画では、何気ない日常のものを独特のまなざしを注ぐことによって、はっとするほど美しい映像や、慕わしかったり、言葉にならない感情を思い起こさせるよう な映像に仕立られている。同じ内容で同じ様に風景を撮ったところで他の誰がこのよ うな豊かな感情を溢れさせる事ができるのか。
小津の映画的な魅力はホームドラマの内容でもなく、抑制され整えられた造型だけでもないし、また小津自身、何かの説明のために映画を作っているのでもない。むしろ映像から匂い立つ時間や風景、溢れ出る感情の豊富さゆえに小津はその映像の独自の 魅力を発散させてるともいえる。…メディア独自の魅力以前にその表現内容への関心があるのは確かなことではあるが、「映画」はその語り口に注目すべきだ。その一つの映像から、その映像の集積から、いろんな匂いを伴った時間の消失と蘇りが感じられたとき、様々な感情の沸き起りを感じたとき、…映画は最もその本質的な魅力を発 揮していると言えるのではないだろうか。
さて、話は随分周辺をさまよったが、侯孝賢の映画「恋恋風塵」の魅力は以上のような文脈のもとに語られる。決して、アジアの素朴な風俗に引かれたとか、台湾でもこ んな映画が作れるのかという驚きや、風景が綺麗で人々に共感がもてるからとかいう ような安易なレベルで魅力を感じたのではない。俗なことを持ち出す事になるが、監督の侯孝賢はオランダのロッテルダム映画祭が88年に行ったアンケート「明日を担う世界の映画作家」でも ヴィム・ベンダース、ジム・ジャームッシュについで第三位に名を挙げられるなど台湾映画のニューウェーブの旗手である。この映画の魅力は まさにその感性豊かな映像と、それを簡潔に間違いなく繋いでいく彼の映画作りのうまさにあったと言って良いだろう。
思えば四角いスクリーンの中に「世界」の中からどういう「映像」を選択し、それをどう繋いでいくかということが映画監督の課題となるわけだが、侯孝賢はこの映画でそこに天才的な才能を発揮している。光の加減、構図、持続時間…映像は特定の記号ではなく豊饒なイメージを表現していると言えるのだ。
映画の内容は、幼な馴染の青年と娘が貧しい生活を続けながら恋し別れるまでを中心 にし、彼等を取り巻く親類や友人たちとの間のエピソードが断片的に語られると言うものだが、取り立てて劇的な展開や訴え掛けはなく、落ち着いた画面は湿っぽい風の温もりや、少し疲れた光の匂いを溢れさせている。
この映像のことを「深みある美しさ」「ノスタルジックな映像」とでも評したいが、 それは名曲アルバム的な美しさとはほど遠く、単に昔の物を思い出すという感覚とも掛け離れている。…美しさと言えば、青年ワンを見送りにいく老人と孫の後ろ姿をゆ っくりと追い掛けるシーンの美しさをどう表現すればいいのだろうか…湿った空気の 曇り空の中を線路ぞいに歩いていく三人を捕える画面…その風景のスクリーンへの収め方、それを見詰めるまなざし…映像から喚起されるイメージは、「別れの辛さ」という単純な言葉では捕えきれない微妙な感情の交錯であろう。…お互いの貧しさと肉親への愛情をいたわりあうゆえに気まずくなった雰囲気ののしかかるような悲しさに 耐えきれず、ホン(ワンの恋人)がブラウスを脱ぐシーン…内容の説明とは正反対な この映像の醸し出す感覚は思考では捕えられず、思わず抱き締めたくなるような「映像の匂い」を沸きたたせる。そしてまた、このような映像への回帰は時間のもつ叙情 的な側面を素朴に表現し得る。出稼ぎ先から青年が故郷へ帰るとき、カメラは無人の町並みを捕え続けるが、小津のピロー・ショットにも似たこのシーンが単純なフラッシュバックよりノスタルジックに「人生」や「時間」への哀惜の情を感じさせ、画面 の中には監督のまなざしに守られた世界が永遠の時を刻んでいる。…そのあたりにこ の作品の本質的な素晴らしさがあると言っても良いだろう。
作品は台湾の現状批判ではないし、またどこでもいい田舎の観念的な風景を映しているのでもない。映画は政治や経済と言った「世界」の表層に目を向けるのではなく、 台湾の現状を、成長し切れないもの持つある種の物哀しい雰囲気にして「世界」の中 に溢れさせる。それはアンゲロプロスが「腐りかかったりんごの香り」を社会から滲み出る「雰囲気」としてその映画の中に溢れさせたのと本質的な意味で似ている。つまり、映像表現の理性への訴え掛けではなしに、映画言語である心の「共振」的な作用という点において…。
さらに述べたいのはその世界観であるが、パースペクティブな論理性とか対立的な倫理感とはほど遠い「すべて肯定」という情感の作用の促しは、瞳を心から離さない。 作品において、生も死も、出会いも別れも、苦しみも楽しみも…全てが肯定的に風景のように描かれ、我々はそれをそのまま心で受け止めればいい。そういうとライの映 画を思い出して「東洋的観念」とか山奥での生活なんかを思い浮かべてしまいそうだが、むしろ東洋的・西洋的というロジックを越えて「保守主義的」ともいえるような 世界観だと言いたい。世界は侯孝賢のまなざしで捕えられたとき「風景」に変り、その映像が「匂い」とか「雰囲気」といった曖昧さで時間を包みながら心に働き掛ける…。 この「映画」の「映像への回帰」は単なる造型的な冴えでもなく、演出された素朴さ でもなく、間違いなく頭に掲げた監督自身の言葉へ還元されているのである。
映像、湿っぽさ、時間の繋ぎ、コラージュ風のシナリオ…どうでもいいことでは(ホンを演じた女優が非常に好みであった)ということなど、この映画の魅力を語り始めるときりがないが、冒頭の侯孝賢の言葉…「人生有情」…この映画の魅力をこの言葉以上に雄弁には語り得ないだろう。
師走を前にした11月の日曜日、去年「都会のアリス」を見た同じ映画館でこの映画とこの言葉に出会った。