「估嶺街少年殺人事件」ベスト・フィルム 1992

エドワード・ヤン(1991年/台湾)

まずはエドワード・ヤンという監督に注目したい。
映画の冒頭・・・真っ暗な画面にぽっと明りが点るシーンから、クレジットタイトルが出るラストまで、信じられないような微細な息遣いで映像が流れていく。夢見るような夜のシーン、薄暮のたたずまいや、緩やかな時間の流れる午後の光芒・・。『映画は映像によって言葉にならない感情を言葉以上に表現するものだ』という映画表現の大原則を気負わず自覚しているような画面作りである。

カメラは、少年たちの「言葉に出来ない」「理性では掴めない」感情を直感的に感じさせてくれる。草むらでミンに寄り添って座るスー・・戯れにスーに向かって銃を向けるミン・・まるで、もどかしさや寂しさが、何の説明も根拠もなく胸に飛び込んでくる。
主人公のスーはついにミンを殺害するに至るが、一体誰が「なぜ殺したのか」という問いに答えられるだろうか。スーの気持ちを言葉で表現出来るだろうか。家庭や60年初頭の台北の複雑な社会構造、政治的な背景や民族的な幻滅が事件に重くのし掛かってい るのは事実だ。だが、少年たちの葛藤と苛立ちと悲しみと優しさと愛情は、夏の夜の切なさや、匂いまでをも感じさせたこの映像でしか表現し得ない。そしてそれに対して私は、そっと胸に手を当てるという反応しか出来なかったのである。
スーは『自分でも訳の分からないうちに』大好きだったミンを殺害してしまう。しかし、その『訳の分からない』という感情が痛切に胸に染み込んでくるのである。映画とはこのような表現形式の芸術のことなのだ。紛れもなく本年度最高の作品に巡り合えた。