父のこと

~『思い出』の巻頭言にかえて~2006年7月

2006年5月1日、庭に咲いたえびね蘭を見せてもらった父の苦しそうな笑顔から感じた不安の通り、翌日緊急入院した時には父は既に自力では歩くどころか座り続けることも出来ない状況でした。それから約1ヶ月と少しのあいだ、病床の父を見舞いながら私のもとに去来したのは、私自身の幼い頃の思い出でもあります。
私の幼い日々は恐らく父にとっての全通研創設前夜。当時、兄の火傷治療の関係で母が定期的に不在になったこともあって、私は東奔西走していた父に近い場所にいたように思うのです。つまり、毎日のように講演活動、集会に出続けていた父はバイクの前に私を乗せ、連れて回ることが多かったのです。小学校に満たない私に残っている記憶というのは非常に曖昧なものでですが、 逆にどちらかというととても本質的なものだったと思います。例えばそれは、「父親の手話は幼い私も退屈しないほど表情としぐさが豊かで、流れるようだったこと」そして、「父親の講演には必ず聞いている人たちが大笑いする場面が何度もあったこと」です。特に後者に関しては、一 番後ろの席で絵を書いたり、折り紙をしながら待っている私にもその瞬間がたくさんあるほど嬉しかったものでした。
ちなみに私が幼稚園の七夕飾りで最初に書いた将来の願いは「聾学校の先生になりたい」だったと思います。

この小冊子は準備の良い父親が自分の死に際して近しい人に配布して欲しいと残したものですが、 父親のややもすれば情緒的にも過ぎた運動も生き様も、この冊子の中に多くの源を感じることが出来るものです。幼い頃、末っ子としてぼんやりと過ごした日々、身体が弱かったこと、中学生の頃の父母との死別、当初はさしたる志もなく教員を目指したこと・・・。偶然聾学校と出会い、 父親は水を得た魚の如く邁進し始めるのですが、父の運動がロジカルで知的なタイプのものではなく、多分に情緒的であり「寂しさとその裏返しである過剰なまでもの人への愛情と眼差し」を根底にしたものであったように私には思えます。幼い日を愛情たっぷりに育ちながら、多感な時期に両親と姉を失って以来、苦難の歳月を過ごすことが長く、人生を通して人間的な愛情に飢え、 それを欲していた運動であり、本来そこに依拠してはならない「憐憫や同情」という気持ちを根底に持つものであったような気がします。しかしながら、だからこそ多くの人々にとって父は本当に代えのきかない、かけがえのない、忘れられない存在となったのではないでしょうか。
盆休みやお正月になるとたくさんの聾の方が家にこられました。もういい大人になった教え子の頭を父はよく「可愛い可愛い」と撫でていました。可愛いという手話を見るとき、私はいつも教え子の頭を撫でる父の姿を思い出します。人と話しをする時の父はいつも笑顔で、中でも聾者と手話をするときは本当に楽しそうでした。

6月9日の明け方、突然の喀血によって死が訪れました。
青年期に肺を煩い、一年間病床に伏し鯉の血を飲んで生き返ったという話を父親からよく聞かさ れていましたが、最期の9年間は癌という病魔との闘いでした。病床では幼い日の父母の夢をよ くみていたようですが、父は60年以上たって父母に再会したのでしょうか。一番の友人であり師匠だと言っていた明石欣三さんとはもう一緒にお酒を飲んでいるのでしょうか。

夕方に帰ってくる父のことを、私は毎日近づいてくるバイクの音で聞き分けて駆け出していました。子供たちの寝室の隣は書斎で、父は家に居る時は必ず原稿書きをしておりましたから、寝室に漏れてくる灯りは暗闇が恐かった私の安堵の光でもありました。父は私たちをよく山に連れて行ってくれました。山頂を目指すばかりの山登りではなく、花や樹や景色や空気を楽しみ、山菜を見つけて摘むのが何より好きでした。(しかし私は以後の夕飯が山菜中心になるので、あまり好きではなかったのですが・・・)よく忘れ物をして皆さんに迷惑をかけていましたが、不思議なほど後から発見されて届けられるのでした。「お父さんは必ず忘れ物をするから、席立ったあと全部点検してあげて」と送り出されて、初めて父と二人で新幹線に乗った時、予定通りにあった父の忘れ物を得意気に手渡した一方で、自分の荷物をそっくり座席に忘れてきてがっかりしたことがありました。その時から父の特質は全て私が引き受けている?と自覚してきたように思います。子供の頃の私にとって浜松うなぎパイ(静岡の方々から頂いたと思われる)は全国を巡る父の持ち帰る大好きなお土産でありましたが、どちらかというと買い物ではなく「こきりこ節( 富山)」「ぴりかぴりか(北海道)」「稗搗節(宮崎?)」など、きっとお酒を飲みながら地元の人に教えていただいたのであろう歌や踊りを持ち帰っては、現地の人々の様子とともに上機嫌で風呂場で子供たちに教えてくれました。

多くの人が父の死を悲しんだことでしょう。
しかし、多くの人の心に父の記憶はしっかりと刻まれていることでしょう。多くの人に親しくしてもらい、理解と協力と支援を受けて父親の人生は充実したものであったに違いありません。

父が亡くなった京都の第二日本赤十字病院の敷地の片隅には「日本最初の盲唖院の創建の跡」という石碑が建っています。実は私は病院に見舞いに行くたびに、遠目に石碑を見つけてはこの地で父が亡くなることの運命のようなものを感じておりました。
父はそのことに気が付いていたでしょうか。
墓地は福知山の生家を見下ろす丘の上に予定されています。父の遺言はこの「思い出」という冊子と墓地のことだけでした。よほど福知山で過ごした「少年時代」に対する思い入れが強かったのでしょう。
父にはもちろんいろんな表情がありました。しかし、今思い出せる表情の全てが笑顔です。いつでも、どこでも、「前向き」で「気さく」な笑顔でにこにこしながら近づいてくる父の表情を皆様方の「思い出」として胸に残していただければと願っております。