食卓の風景

私たち家族から見て、父は山菜摘みの名人でもありました。
山菜だけではなく、秋には木の実を、夏の海ではウニやサザエは当 たり前のようにとってきました。(…一度、蛸までとってきたのには驚きましたが…)戦前、幼少期を田舎の野山や川で育ってきたような人ですから、このようなことは当たり前のことだったのでしょ うか。特に山歩きは好きで、春ともなると貴重な休みの日には必ず 高雄や愛宕登山に家族で出かけていたような気がします。家族で山を歩いていると、父はふと居なくなるのですが、しばらくすると必ずたくさんの「蕨、ぜんまい、蕗、こごみ、芹、野蒜、山葵、…山道の草花…」をとっては戻ってきました。必ず他の三人の分を足しても到底叶わないような量の山菜を抱えスタスタと歩いていくのでした。つまり山登りと言っても、ピークを目指す登山ではなく、山の表情そのものを楽しむ山歩きだったと言えるように思います。

で、問題はその後なのですが、私たち兄弟としては、確かに山菜取りも面白いし楽しかったのですが、帰宅後はしばらく食卓に山菜料理が続くことになる予感に、(子供にとってみると山菜よりもハンバーグ でしょうから)ややうんざりした気分になったものです。父はお酒が好きだったので、程よいお酒のつまみという感じだったのでしょうが、 とってくる山菜の量が多ければ多いほど子ども心にはやや「まいったなあ…」という気分になったものでした。母などは種類の異なるこれらの素材の整理と調理を一人で片付けねばならず、よくグチをこぼしていました。

うんざりと言えば、一時期、我が家への父の訪問客が必ず「手打ちうどん」 を食べさせられる?…という時期があったと思います。食べさせられるだけでなく、うどん打ちにも参加させられていたと思います。もともと父は麺類が大好きで、夏休みのお昼ご飯など毎日うどんか素麺 (それはそれでうんざり)でしたが、どこで情報を仕入れたのか、ある日、我が家に手回しでの「ミニ簡易うどん製麺機」がやってきました。粉を捏ね、製麺機で伸ばして切って麺にするのです。確かに子供時代の私たち兄弟は、最初の方こそ率先してうどん作りの手伝いをして盛り上がっていたのですが、2、3回手伝うとだんだん飽きてくるものです。にも関わらず、父は一つ目に買った製麺機がやや小さくてぐらぐらするということで、少し大きめのサイズのものに買い足したので、我が家には一時期2台の製麺機がありました(後にそのうち1 台は父の兄に引き取られていきましたが…。)これで来客があっても一気にうどんを作る量が増やせるということで喜んでいたのでした。

我が家ではいつも、何事も父のペースで進んでいくので、そのような状態でしたが、何度か父自身が自ら私に料理をしてくれたことがありました。兄が入院し母と長期に不在の期間、多忙な父が夕方にいったん家に帰り食事の準備をしてくれたのでした。適当な分量での大雑把な味付けの料理でしたが、二人になったときは必ず「茄子をミンチと一緒に煮付けたもの」を作ってくれたものです。父は甘口の味が好きだったように思います。きっと私の味覚と同じだと思うのですが、私はそれが大好きで、作ってもらうと大喜びして母に報告したことを思い出します。

父は昭和初期の人ですから、食べ物に対する大きなこだわりはなかったように思います。大好物が何であったかはにわかに思い出せませんし、 何でも良く食べる人で、各地でいただく名産品が食卓を飾ることもありました。外食はほとんどなく、食卓の風景は、古き良き昭和の風景そのまま、父の存在感の大きい「穏やかで安心感の漂うもの」でした。お銚子をつけるのが私の役割でしたから、熱すぎない「ぬる燗で毎日1、2 合」ずつ飲んでは、良い心地になってくれたものです(しかし、ひと眠りした後はまた深夜まで勉強や仕事をしだす)。父はよく私にお酒を舐めさせたりしていましたし、賢明な?私はお猪口に梅酒を入れてもらったりして、お酒の相手をしておりました。しかしながら、ようやく私が父の好きだった「山菜」や、薬味の利いた「うどん」や、「お酒」の味が 分るようになった頃には、父は胃や腸を切除したりして、自由に食べられない状態がありましたので、そのあたりだけが今もって少し残念であった 気もいたします。


そういえば、豆腐が好きだったかもしれません。母は、毎日森嘉の豆腐 (現在の嵯峨野の研修センターのそば)を買ってきてましたので、それは父の好物でもあったのでしょう。葱や山椒は家の庭に植わっていたので、それをとってくるのも私の役割でした。

全国手話通訳問題研究会の機関紙(4回シリーズ)より