バイクの音

全通研後の伊東雋祐しかご存知ない方であればさぞ驚かれるかもしれませんが、 幼い日の私にとっては父親と言えば「いつもバイクに乗っている人」という印象でした。後年、母が車の免許を取るまで、(もっともこれは母親の意思ではなく、 父親がバイクの代わりに自分の足として自動車を当てにしたのでしたが)、父親 は毎日バイクに乗ってあちこちに飛び回っていました。母が用事で不在の時など、幼い私は隣の家に預けられていたのですが、夕方にバイクのエンジン音が聞こえると、それが遠方からかすかに聞こえただけなのに外に走り出ていくので、隣家ではたいそう驚かれていました。父親のエンジンの入れ方や緩め方の特徴をよく知っており、騒音や他のバイクの音と正確に聞き分けていたのでしょう。

季節が良くなるとふらっと清滝や高雄等にドライブに連れて行ってもらっておりました。高雄にいくと峠の茶屋ならぬ、峠のはったい粉屋があり、珍しい粉を舐めさせてもらったことも記憶の底から蘇ってきます。時にはバイクに釣竿を乗せて 川で魚釣りをしたり、突然の飯盒炊爨になったりもしましたが、バイクの前に座り、 風を受けることが私の楽しみでもありましたから、父親が「一緒に行くか?」と言 うと私はヘルメット(父は鉄兜と言っていましたが)を被って玄関に出て、バイクの前座席に座らせてもらったものでした。

そもそも父親は講演や通訳や集会で毎日飛び回る生活をしておりましたが、私を連れて行くことが好きで、「伊東先生、こんな小さいお子さんがおられるんですか?」と言われると、随分喜んでいた気がするので、何となくその場が和んだり もするのでしょう。私はバイクに乗せられて連れ回され、父が通訳や講演をしている間中、若い参加者から順番に折り紙を教えてもらったり、お菓子をもらった り、相手をしてもらっていたのだと思います。

さて、父のバイクに乗って行った先で一番印象的だったことをと思い出すと、 実は日々のろう学校の行き帰りであったかもしれません。晩年は、健康のためにも歩いて通っていましたが、私が幼い頃は、その後の予定のこともあるのか、 ごく近い距離であるにも関わらず、毎日バイク通勤をしておりました。私自身がまるで自分の家の庭のようにろう学校のことを覚えているということは、例えば日曜日や夏休み春休みなんかにも頻繁にろう学校に出入りしていたのでは ないでしょうか? 私は仕事や作業を待つ間、相当な回数ろう学校の花壇に水遣りをしていたように思います。(ので私のおかげで年中花が咲いていたのかもしれない)夏の終わりには、校庭の桜の木一本一本から蝉をとっていましたし、 正門からの坂道に沿った石壁は、どの場所からよじ登るか(坂道なので高さが違う)というチャレンジを一人でよくしておりました。
わざわざろう学校まで歩いて父親を迎えに行き、バイクに乗って帰ってくるなどということもあったように思います。ようやく仕事の終わった父親のバイクに乗せてもらったのに、偶然生徒が通りかかったりすると、父はそのままバイクを引いて歩き、立ち止まってはバイクを止めて手話をし、(ときには高校生なのにまるで小学生扱いでその生徒の頭を撫でたり・・・これは本当によくやっていた) なかなか帰ってくれなかったことを思い出します。女子生徒なんかは、私の相手をしてくれたりもするので、ますます笑顔の父親がいつまでもいつまでも大きな身振りと表情で話し込んでいるのをバイクの前座席に座ったまま待っていたものでした。

私は、ろう学校の行き帰りに父の人生の本質的なものがあるのではないかと思っています。それは社会運動や社会活動の中で貫いた信念や力強さとは間逆の 「人に対する憐憫にも近いやさしさや、愛情溢れる姿」としてです。そして、私には、ろう学校の帰り、名残を惜しむように生徒に笑顔で手を振り、私の頭を撫でてバイクにまたがる姿に父親の全てが凝縮されているように思えます。 仁和寺の外壁とろう学校の坂道を照らす夕焼けの風景、そしてその空に響き始 めるバイクの音が鮮明に蘇ってきます。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
                    茂吉(『あらたま』より) 

ふと思い出す茂吉の短歌です。父親が茂吉を敬愛し、自らも歌を読んでいたことはご存知の方もおありかと思います。これは、父親が高校生の私に教えてくれた父の好きな歌でした。

P.S.
父の葬儀に際しては、自宅から葬儀場への道すがら、唯一ろう学校の正門前にだけ立ち寄ってもらいました。爽やかに晴れた六月の朝。仁和寺の土塀の向かい、両脇を鮮やかな躑躅に彩られた美しくも懐かしい正門からの坂道が今でも心に残っています。

全国手話通訳問題研究会の機関紙(4回シリーズ)より