旅など

父と一緒に旅をした最初の記憶は、私が幼稚園(か小学校に入ったばっかり)の頃、 横浜に入院中だった兄(と付き添いの母)を迎えに行った時だったかと思います。 マリンタワーにのぼった記憶があるので、退院する兄たちと新横浜で合流して観光 に行くということになっていたのではないでしょうか。もともと兄から聞かされて いた「新幹線」というものに憧れていました(富士山が見えること、食堂車がある こと、車内販売のアイスクリームが美味しいこと)ので、とてもわくわくして父と 乗り込んだことを覚えています。実はこの時、母からは「必ず降りる前にお父さん の忘れ物を点検してね」と言いつけられていました。(家族では有名な話ですが、 父は本当によく忘れ物をしてました。そのことを見越してあらゆるものに住所と 氏名が書いてあるから、不思議なほど家に届けられる)。…旅行といっても、こう いう時父は講演の原稿を書いていたりするので、私は絵本を読んでいる程度のこと なのですが、楽しみにしていた車内販売のアイスを買ってもらい、食堂車で何か食 べさせてもらい、富士山の見える方を指差してもらって、新幹線を満喫しておりま した。やがて、新横浜に到着し降りる段になって、「さてさて、そういえば忘れ物 がないように」と思いながら慌ただしく離れていった父の座席の後を見ると、びっ くりしたことに本当に父が原稿用紙を忘れているのでした。「あ、これで母にも 褒められる」と思い、私は微笑みながら新幹線のホームに降りて父親に手渡した ことをよく覚えています。しかしながら、その時、私は父の忘れ物に神経を注ぐ あまり、自分が読んでいた絵本を新幹線の座席に忘れっぱなしにしてしまったの でした。そのことを再会した兄たちに笑われ、すっかり自分の手柄がかすんだだ けでなく、ちょっと悔しい思いをしたものでした。

父は、都道府県で行ったことのない土地はないくらい毎週末のように全国を駆け 回っていましたので、よくいろんな土地の話(風景や食べ物や祭りや歌の話等) を聞かせてもらいました。あまり土産を買わない人でしたが、私たち兄弟が幼い 頃は、旅先からはよく絵葉書が送られてきており、いまだに大切に保管しています。 現地の民謡(こきりこ節、稗搗節、)等もよく聴かされたり、(エレクトーンで 弾かされたり)歌わされたり(無理やり踊らされたりも)したこともありました。
その忙しさから、つい「とても家族とのんびり旅行をするということもなかった」 と思いがちでしたが、冷静に振り返ってみると毎年必ず母親の実家(山陰の浜坂) には来て、子供らを海に連れて行ってくれてましたし、それ以外にも、実はわり と多くの家族旅行があったと思います。私も現在では、全国の各所を訪れるよう な機会があるのですが、ふと気付くと「そういえばここは連れてきてもらった」 と思うような経験がたくさんありました。実家でアルバム等を見返すと、徳島、 高知、鳥取、金沢、松本、松江等の記憶が蘇ってきます。ただ、「のんびりとし た旅行の印象だけはない」のですが、それは父が全行程を参加するのではなく、 帰りはバラバラとか、途中で合流とか、場合によっては途中で現地の人と会うと か…、仕事なのか旅行なのか分からないようなシーンが混ざることが多かったからかもしれません。しかも列車の中でも旅館の中でもまとまった時間があれば、常 に講演の原稿を書いているので、母親からは「もう、こんなところにまで来て仕 事をしなくても」という感じで苦い顔をされていましたが、私なんかは慣れてし まって父親とはそういうもんだと思っておりました。ただ、旅行だと思って楽しく くっついてきたつもりが「ろう者の集会や記念大会」のようなものに連れて行かれ ていた?…ということもよくあったので、そんな時は大人に囲まれたり、ひたすら 父の用事が済むのを待ちながら、ちょっと子供にとっては退屈な時間を過ごさねば ならないのでした。まあ、今から思うと少しでもいろんな場所(風景や祭りや)を みせてやろうとか、多忙な時間の隙間で少しでも子供と一緒の時間を過ごそう、と かいう気持ちがあったのかもしれません。もしくは、そもそも父にとって仕事とい うものが割り切った区切りのある時間でのことではなく、ひたむきな日常生活と同 居しており、家族も巻き込まれていただけのことだったのかもしれません。

父は非常に旅慣れており、いつも荷物は少なく、移動や予定変更にもフットワーク軽く(忘れ物の多さを除いては)、てきぱきしていましたが、生涯最大の冒険はヨ ーロッパの視察旅行ではなかったかと思います。この時、家族は待っていただけでしたが、父は海外オンチで、出発に際しても、「海外に行くのに家族写真がいるのを忘れていた!」と電話がかかってきて、慌てて母に写真を持ってこさせたりして いました。当然のことながら、「あると便利」というアドバイス程度のものを、父が勘違いしていただけのことなのでした…。家族中が心配した海外旅行でしたが、 撮ってきた写真をスライドにして楽しそうに語ってくれたことを思い出します。 ブルガリアだけはまた行きたいと言っていたので、とても気に入ったのでしょうか…。 そう言えば「御飯と味噌汁」がほぼ不動の朝食メニューであった伊東家の朝食が、 父の渡欧を境にパン中心へと変わり、牛乳を全く飲まなかった父は自慢げにヨーグルトまで食べるようになったものでした。

さて、晩年には、親孝行のつもりから私のほうからささやかな旅行を企画しました。 能登半島では、何でも父母の新婚旅行時、豪雪で一週間も足止めを食らった旅館 (もう無くなっているのですが)のそばとのことで、父母が古い写真を片手に旅館のその後を探したりしており、ちょっとした時間旅行にもなっておりました。亡くなる半年前の暮れの最後の旅行では、本人ももうそうそう旅行には行けないと覚悟していたのでしょうが、どうしても会っておきたい人がいるということで、旅行というより、かつての知人を訪ねての旅で、再会を喜んでいました。結局は風景よりも食べ物よりも「人」を選んでいるところが父らしいなあと思ったものでした。

全国手話通訳問題研究会の機関紙(4回シリーズ)より