父の思ひ出

「けいしやけいしやきておくれ、といつでもとうさんはいいます。
くさひきや はなのおみずやりをてつだってほしいからです
きんぎょのえさをやるのは けいしのとうばんだったね
みんなとよくあそぶいいこに
(中略)
がまんするけなげないいこに
けいしはきっとなってくれるとおもうよ」

これは私の幼稚園の卒園に際して珍しく父が書いてくれた文章で、 私はその独特の言い回しをとても気に入っていたのでした。幼い頃の私は父親が大好きで、幼稚園の七夕飾りにも「将来なりたい」 ものとして、「パイロット」や「仮面ライダー」と書いた友人がほ とんどの中、「ろう学校の先生」と書いて周囲から微笑ましく思われたものです。父の生涯の全容がどのようなものであったのか…、 近くにいた私でもとても分かるようなものではありませんが、私の立場からの思い出は、生涯をかけて打ち込んでいた社会的に貢献の あるようなことよりも、木漏れ日のようにして日常から漏れてくる 言葉や言動の数々にその愛すべき人となりが溢れているように思い ました。私が好きなものはこのような子に宛てた文章や旅先からも らった絵葉書、短冊に残している短歌、自分の葬儀に際して準備し た自己の幼少期を綴った「思ひ出」という冊子(かつて京通研の機関紙に連載?)の類でした。「思ひ出」の中には、父が小学生の頃に家族で行ったお花見の写真がありますが、その中の父は全く聡明そうな感じではなく、とても嬉しそうな「はにかみ坊頭」の顔で写っています。8人兄姉の末っ子、それもうーんと年の離れた末っ子 ですから、よってたかって可愛がられ、甘えん坊に育っていたに違いありません。私はその頃の話をどれくらい「お風呂の中」で聞かされたことでしょうか?その幸せそうな大家族のお花見(大好きだったお姉さんも嫁ぎ先から来てくれるのでいつも待ち遠しかった…) の写真から1年くらいのうちに、父はその姉と母、そして父を相次いで亡くすことになります。冬の朝、父の死に動揺して、生き返るかもしれないと思って、何度も何度もお湯を沸かしてたらいに入れ、 冷たくなった遺体を温めてみた…、という話は甘えん坊で無邪気な中学生だった父親の気持ちが伝わる話でした。
その後、幸福な環境は一転し、父は親戚の家に預けられます。ずっと気を遣い続けるばかりの子供としてはとても辛い日々のこと。結核で1年入院し、軍隊行きは逃れたけど、死の直前に「鯉の血」を飲ん で生き返ったこと。周囲は医者にさせようと思って勉強させられたけど驚くほど成績が悪く、いつも下から二番目だったこと、…何度も何度も繰り返して聞かされた話ばかりが身に染み込んでいます。冊子 「思ひ出」の最後は父の父(私にとっての祖父)の話です。舞鶴港に軍艦を見に行くのに、最初に家の軒先の長さを幼い父の歩幅で測ってから二人で一緒に汽車に乗って港に行った、と綴られる話です。躾に厳しく美意識の高い古い人であった祖父と聞いていましたが、「軍艦がいかに大きいか」を実感させて驚かせようという配慮は、冒頭に紹介した文章のような、私にとっての父に近いイメージがあります。これは私の好きなエピソードなのでした。

…私は父の手をよく覚えています
よく思い出します
ごつごつ骨ばって、でも皮膚はつやつやしたとした大きな手を
その手は言葉を紡ぎ、語り、美しく流麗に世界を表したように見えました
しかし本当は、その手が何かを作ったのではありません
表現したのでもありません
その手は「人のぬくもりを求めている」ようでした
その手は「人と人とを結びつけ、繋ぐ」手だったのでしょう
私はそう思います…

このタイトルで連載させてもらってきましたが、今回が最終回ということになりました。父はわりと表裏のない人のように見えましたし、人に対して積極的に関わっていく人でした。しかし、ナイーブで見えざる核心は、 幼い頃の家族との別離による寂しさの裏返しの愛情であったようにも思 えます。もちろん、そのような試練があったからこそ、その後の「胸を打つ懸命な人生」があったとも言えるのでしょうか。
小学生の私に、父はお風呂で「人生は困難に耐える力を養うためにある」 と言いました。また「体が弱い人、痛みのある人ほど、相手の気持ちが分かる人だから大切にするように」とも言いました。遺言は二つだけ、葬儀に際して「思ひ出」という冊子を配ってほしいということと、家族にとって不便だけれど、お墓だけは幼い頃の野山が見える故郷(福知山)の丘の墓地にということでした。きっと、今も故郷の野山を駆け巡っているのでしょう。

※2年間に渡りありがとうございました。今回このような形で多くの人に思い出したり、想像してもらえる機会があったことを父は喜んでいると思います。

全国手話通訳問題研究会の機関紙 より