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 2020年振り返り〜コロナの産物

20−07 2021.1.4

思い出すだけでも大変な一年であったことは間違いないのですが、音楽家仲間の中で幸いにして私には仕事がありましたし、それがかなり大変であったということを差し引いても11年ぶりの生活環境の変化(職場の場所変更)ということもあり、今年一年、久しぶりに出来たこと、気が付かされたことが多かったのも事実です。
例えば1999年に初めて「なにわコラリアーズ」で全国大会に出場して以来、私は21年間連続で全国大会に出場しています。「なにわコラリアーズ」はその後10年連続の金賞を獲りましたが、金賞率100%が実現しているうちは自分自身にかなりのプレッシャーを課しており(つまり、全国大会で凄みのある演奏を披露し、結果としての金賞を獲る、獲るべき、獲った方が良い、それが男声合唱復権のための足跡となる、と強く思っていた)10月頃からは毎日メンバーの状態のことや演奏のことが頭を離れませんでした。「なにコラ」が出場を辞めてからは、そのような意識はなく、リラックスしていたとは言え、合唱団は組織ですので全体のコンディションやスケジュール的なことも含めて、どうしても秋口から冬にかけてのタイトな状況になりますし、それと本業等との兼ね合いにも大きなストレスを抱えていたことは事実です。そういう意味では、色づき、移ろっていく自然に目を止められる、「本来過ごすべき秋」を過ごすことが出来たようにも思います。 ちょうど、そのタイミングで職場の通勤時間が無くなりましたから、その分きつい業務だとはいえ、土日に時間がある、時間の隙間がある、という状況が現れ、この20年ほど忘れていた当たり前の時間のようなものの存在に気づくことが出来ました。逆に言えば、この間、エネルギー放出ともいうべきアウトプットしかしておらず、いかに充電をしてこなかったか、しっかり個に帰って芸術や表現と向き合う時間を持ってこなかったか、ということにも気づかされました。
先に書いていますが、今年一年の中で、このような時間がなければ私はガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読まない人生を過ごしたことになります。これを「読んでおけた」ことは自分の人生を豊かに変えてくれましたし、「合唱指揮をしたいんです」という学生に対して、「君はそもそもドストエフスキーを読んだのか」という台詞に加えて、「ついでにガルシア・マルケスは読んだ方が良いぞ」という切り返しのはぐらかしをするゆとりが加わりました。

ニュープリントでの映画「惑星ソラリス」「鏡」の再見は様々な気づきと、記憶違いの補正に役立ちました。映画研究をしていたというにしては見てないことが痛手であったロベール・ブレッソンの「少女ムシェット」「バルタザールどこへ行く」を見ることが出来ました。素晴らしい時代に生まれたものです。ブレッソンもまさか60年後の日本の映画館の片隅で、「ああこの映画を見てないことは人生の落ち度の一つであった」という感想を持つ日本人がいるとは思わなかったでしょう。つまり、真摯に向き合い全身全霊を傾けた芸術作品は、時を超えて誰かの胸を打つのです。2年前のお正月に高熱でベルイマンを見逃し、DVDでフォローしたことをはるかに凌駕する人生の再開でした。何故なら、大学時代にブレッソンの最終作品となった「ラルジャン」を当時の北浜の三越劇場で見て大衝撃を受けたにも拘わらず、京都でブレッソン映画を見ることは難しく、入手可能なビデオのリストにもほぼ存在しなかった(恐らく「スリ」「抵抗」しか見れてない)ので、この再開は大学時代の自分の感性との再会でもあったわけです。
通りがかった映画館でのペドロ・コスタ「ヴィタリア」は素晴らしかったですし、そのようなワードを久しぶりに使えることは、音楽芸術のために全身全霊で没入すべき指揮者を目指すのであって、「目の前の合唱団を少しでもよくする」という程度の「職人」に留まってしまわないためにも、私にとっては重要です。(これは後者を否定しているわけではありません) 実は勅使河原宏の「他人の顔」を見て、煙草を吸いまくるこる武満徹を発見し、その音楽として使われていたワルツの凄みを実感しましたし、潜り込んだロゴニツェの「国葬」はうたた寝する前と後で画面が変わらないような映画でしたが、フェイクニュース蔓延るこのご時世そのものを風刺するようで面白かったです。「スパイの妻」は、それらと比べると突っ込みどころ満載な次元ではありましたが、大学時代ずっと勉強してきた「手際としての監督技術」について、「なるほどね、ここはこういうふうにするのね」とうなずきながら久しぶりの勉強目線で鑑賞していました。ビデオですが、遊眠社+野田地図の作品をいくつか見ており、中でも「半神」は本当に素晴らしく、これを高校時代に見ていたら、大学では演劇を選択していたのではないか、とも思いました。
つまり、少しの時間のゆとりがあり、もともと私が興味を持っていた本物の表現芸術と呼吸出来たことによって、自身の感性や知性を柔軟に保つことが出来た健全な一年であったとも言えるわけですね。

   


後は思い出すままに。その後(前回の文章後)、マーク・トウェインを読みました。マッカラーズの「心は孤独な狩人」を買いました(読んでいませんので、詳細はまた)。11年前に通い詰めていた定食屋に再び通っています。週一で行くべきうどん屋を見つけました。いつ松下先生や相澤先生を案内することになっても心配のないよう各地のステーションとしてのラーメン屋を把握しています。 もの凄く美味しいパン屋を見つけました。ここでは紹介しません。そして、甘味本を愛読書にしながら、ほとんど食べてこなかった事実を反省し、ほんの数十分の中で姿をくらましながら店に潜入したりしていました。これで関りのある女性作曲家たちの接待も万全です。これも特に紹介しません。写真だけ、少しばかり自分自身の備忘も兼ねて。

  

        

さて、恒例の年末合宿は中止でしたが、オンラインでの講習会を試みました。3時間かける2本のぶっ通し。一発撮りとしましたが、やはりリアルでやる講習会の100倍難しいですね。私たちは目を見て話す生き物であり、うなずきながら共感をする生き物なのですね。もちろん、「教える側が言語を磨く勉強」にはなります。しかし、こういうことがしたい訳ではないんだよね、とも思ってしまうのです。時を待ちましょう。

12月31日は気をつけながらいつものように錦を歩きました。そして、そのまま密でない状態でしたので、「ぎおん徳屋」に行きました。「風情」とは、季節や気温、匂い、気遣い、風景、物腰、品格、…その「場」から生じるものですね。早くそれが取り返せますように。そして、隠された罠を注意深く避けながら、来年も何とか歩んで行けますように

  
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