舞台芸術としての合唱表現の可能性について
●「合唱音楽」
合唱というと、窮屈で型にはまったクラス行事等を思い出されるかもしれない。
実際のところは、邦人作品だけでも多種多様な曲が存在し、新作を巡る状況も
豊かなのだが、確かにやや閉鎖的なフィールドに置かれていることもあり、その
活動可能性が充分に開発されてない側面もあるように感じる。特に舞台芸術とし
ての合唱表現を考えたとき、思い出す記憶と実践しつつある実例があるのでこの
場でご紹介したい。
●「合唱音楽と身体性」
数年前のことであるが、合唱指導者や歌い手に向けた研鑽の場面に演出家の岩田
達宗氏を招いてシアターピース(演劇的表現を伴う演奏方法)のワークショップ
を開催したことがある。題材は「モーツァルトのレクイエム」である。直立不動
で演奏することに何の疑問も持たない曲を選曲したのは、合唱曲の演出というよ
りは、言語の集団的・身体的表現が音楽にどのような変化をもたらすかを試すた
めでもあった。内容は至ってシンプルな方法によったが、一歩踏み込んで考えると、
「音韻と意味内容との相互関係」「言語と動作、動作と音楽との連関」という根
本的な要素に行き当たり、合唱表現の可能性について深く考えさせるものとなった。
例えば、「Dies irae(怒りの日)」を歌うときに、これは神の怒りであり人間の
恐れであると考えて演劇的に動き回ると(怒りの表現として、足を踏み込み、拳
骨を上げ下す等)、視覚的にも理解し易くなるとともに、Dの発語(息の初速)と
ステップ(力強く足を踏み出す)とが絡み、内容に合った強い音になってくること
が確認出来た。また、「Lacrimosa(涙の日)」について、実際に死者と見立てて
人を寝かせ、彼を取り囲んで献花しながら歌ってみると、これまたリズムが葬送の
足取りと合致するだけでなく、しゃがみこんで死者の身体に花を添える動作のしな
やかさと曲のフレーズとが連動してくることが感じ取れたのである。
●「合唱音楽と演劇性」
もう一つの記憶は、昨年の合唱フェスティバルである。作曲家の千原英喜氏ととも
に「シューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』を日本語による合唱曲にして歌う」
という企画を行った。アカデミックな観点からは目を剥くような話ではあるが、
全20曲がストーリー仕立てになっていることにも着目し、主人公にも名前を与え、
曲間に進行役とも背景の解説とも言うべきナレーションを加えながら大胆な音楽物語
として合唱団で歌ったところ、結果的には客席からの大きな共感を得るステージとな
った。集団表現であったことで技術的なハードルが下がるだけでなく、パートの役割
で物語の背景たる川の流れや主人公の内面にも立体性を持たせられたということもあ
る。しかし、何よりそこに「了解されるべき」物語性があったことが、「音韻の変換
不能」と引き換えに、言語の移し替えを効果的なものにしたと思える。これはほぼ別
の新しい曲、とも言えるかもしれないが、少なくともこの作品を合唱で歌うことで、
聞き手と歌い手がともに「どきどきハラハラしながら」主人公の行く末を案じるとい
う共犯関係が生まれ、原語独唱とは違った味わいを生み出せたのである。
●「合唱表現は言語表現でもある」
私は「合唱指揮者」として「我々の演奏がどのように客席に伝わるのか」ということ
を考える立場にいるのだが、今述べた二つの試みに代表されるように、合唱表現につい
てはまだまだ充分には開発され切っていない大きな可能性があると思っている。同じ
音楽でも合唱と器楽との違いはそこに「言語」があることであり、合唱は言語に伴う
「内容表現性を持つ集団での表現形態」だとも言えるわけである。
例えば「私は、いつまでもあなたとともにあの月を眺めていたい」と歌うときに、言
語内容を観客に了解させつつ、言葉を媒介にした共通の共感のようなものを得なけれ
ばならない。そのためには、発語の研究に加えて、歌い手の視線や身体の状態は重要
であるし、もしテキストに前後関係(や物語性)があるのならば、演劇的要素を強め、
手をさし伸ばす…、隣合った人同志がうなずきあう…、という演出を加えることで、
単なる「温かい音」という抽象性を越えて具体的な体験やシチュエーションを喚起
(もしくは了解)させるものにもなるであろう。また合唱が集団であることによって、
例えばフォーメーションの変化や相互連関的なアクションを統率する演出の可能性が
あり、そのあたりに合唱の「舞台芸術としての可能性」が広がっているとも思うので
ある。
もちろん、これは決して「オペラか合唱劇か合唱か」というようにジャンルの優位性
や定義に言及するものではないし、動きのない合唱を否定的にとらえ、もっと動くべき
だと言おうとしているのでもない。合唱の「言語性と集団性」という機能面と向き合う
ことで、音楽表現上(あるいは舞台芸術として)の可能性を拡張することに繋がるので
はないかと思うのである。
●「私の現在の取り組み」
現在、「名古屋大学コールグランツェ」という合唱団の演奏会で、「朗読でストーリー
を進行させながら、フォーメーションや身体の状態、照明による簡易な演出を混ぜて演
奏する新作合唱作品」を発表している。これはいずれも私が(「みなづきみのり」とい
うペンネーム)テキストを書いたものに作曲家が曲を作り、俳優が朗読をし演出家が演
出をするというものである。現在、高嶋みどり氏と、山下祐加氏の2作品が完成しプロ
ジェクトは進行中である。これらの曲はまず合唱曲として完成している。加えて、全体
を通して「了解されるべき緩い物語」がある状態なので、状況に応じた多様な演出を可
能とする(「合唱劇」が演出をマストとするのに対し「合唱」と「合唱劇」をブリッジ
するフィールドを狙っていると言えようか…)。合唱団員にとっては、言葉と向き合い
ジャンル(言葉を媒介として合唱と演劇)を越境することによって新しい表現上の視座と
経験を得ることになったが、特筆すべきことに、この取り組み以後、演出を伴わない曲
目のステージでの表現や表情にも良い影響が出始めた。このことは、結果だけではなく
練習の中で、言葉の表現力、フレーズとの関連性、曲の構成に対する理解が促進し、音
楽表現上豊かなプロセスが形成されていることを示すものだとも言える。
●「合唱表現の可能性」
日本の合唱音楽にはヨーロッパのようにキリスト教(舞台音楽ではなく教会音楽)を背
骨にした千年の歴史はない。どちらかというと、コンクールを中心にして国民性にあっ
た形で「克己心」や「チームワーク醸成」を軸とした「学校教育的なものの延長線上に
理解」をされてきた節がある。加えて、経験上、より感情表現の苦手な人間が演劇より
合唱を選択している可能性は高く、そのアマチュア的フィールドを考えても「身体表現
と簡易な演出を加えた合唱音楽」という取り組みは、合唱そのものの表現可能性を広げ
るとも思うのである。
合唱は集団で言語を扱うことによって、純粋音楽という領域だけではない社会性のよう
なものを帯びる。それを利用し、「言語」と「集団」という点に着目すること、「身体
性」と「演劇性」のベクトルを持つこと…、で、より自然で豊かな舞台的表現と多様性
を持ったプロセスが現れてくるような気がしている。テキストを見極め、ジャンルを融
合しながら一歩拡張した合唱表現を目指してしばらく試行錯誤してみたいと思っている。
洪水18号に掲載 2016.7
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