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 めぐみのあめ、みのりのこえ

14−2 2014.2.26

ジョイントチラシ
新年最初の演奏は、淀川混声と大久保混声とのジョイントによる 「さびしい魚のお話」でした。

さて、本来の趣旨どおり呟かせていただくわけですが、最近になって、 ようやくさしたる演出もないまま、なし崩し的にその同一性を認め出 している「某詩人」との関係についてですが、一体いかにしてこんな ことになってきたのか自分でも分からない感じです。
調べてみると2006の年末頃に団員の結婚式に歌詞の作詞を頼まれたの ですが、なぜ頼まれたのか思い出せません。それまでただの一つの詩 も書いたことのない私が初めて作詞をしたということになります。た だし、思い起こしてみると、私の父親は(亡くなった1か月後にNHK 教育番組で2週に渡って回顧される)聾教育と手話通訳の第一人者で あったわけですが、実は他方で歌集を出しており昭和万葉集のような 選集にセレクトされていたり、ある日開いた朝日新聞の大岡信「折々 の歌」欄に名前を発見したこともあったり、友人ではありますが父の 歌集に対する研究書があるくらいの、ある種の特徴を持った作風での 短歌を趣味としておりました。自他ともに父親とほとんど同じDNAを 背負っていることを認める(認めざるを得ない)私が、意識的に全く 同じ轍を踏んでないにも係らず、「聞こえ」と「言葉」を扱うことを 活動の主とすることの正当性のようなものが、そこにあると言えるの かもしれません。そもそも私と兄の名前が「し」で終始することにつ いては風呂場で父親が繰り返し「好みの韻律のようなものがあること」 を私に語っていたことが思い出されます。幼稚園児の私にはあまり分 かりませんでしたが。
さらに思い返してみると、中高の時期に新潮文庫の外国文学の翻訳作 品はほとんど読み漁っていたこと(ほとんど忘れてしまっているとこ ろが悲しいのですが)、大学時代は映画芸術を研究対象にしており、 なぜか「小説家志望者」と「書道家」とともに同人誌を作っていたこ と、さらにその同人誌では書道家が詩を書き、私が映画論を書いてい たにも係らず、書道家は書道家、私は詩人ということになっていたこ とからも、もともとポエティックなエッセンスが私の中に渦巻いてい た・・・、と考えることが通りも良く美しいように思えます。

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驚くべきことに、昨年度うちに曲になった作品が50くらいもあります。
文章やロジカルなプロセスを必要とする小説では耐えられないことが 詩やメルヘンでは許されてしまう部分と私の感性が合っているのかもし れません。論理性を飛び越えて、無意識的なものや潜在的なものが欠片 のようにして見え隠れしながら言葉になって整列してくるというのが私 の詩です。恐ろしいことや不安に思っていることや死や裏切りや別れを トレーニングするために言葉にして反復している感じはします。しかし、 いずれも全うな説明の出来ないまま、ある種の陶芸における釉薬のかか り具合のような具合で成型されてくる言葉の配列に作曲家が違う秩序と 色彩を与えたとき、私は私の世界が広がり深まったような感覚に包まれ ることがあります。なので、自作を指揮することも多いのですが、不思 議と何の違和感も自己完結する思いも感じないのです。まるで、初めて みる言葉の配列のようでいて、なぜか懐かしいという思いをしながら指 揮をしますので、解説を求められても、格好を付けるわけでも何でもなく、 たいていの場合はそのまま「不明だ」としか言いようがないのです。む しろ指揮者としては、テキストが誰の作品であってもほとんど関係のな いことのように思えます。

1月の最初のコンサートは、まさかこの作品に曲が付くなど想像もし なかった「さびしい魚のおはなし」でした。新進気鋭の作曲家である 土田豊貴先生が意表をつく音を与えて下さいました。つまり、作曲家 によって私の中に留まっていた言葉が新しい色彩と音像を立ち上げな がらこの世の中に響いたということです。まさにそのような至福を感 じた東京の夜なのでした。

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土田先生、田中先生、水戸先生、大久保混声の皆さんありがとうござ いました。「よどこん」はもっと頑張ろうポイントをたくさん見つけ ましたので、まだまだこれからです。

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