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 わたしを離さないで(カズオイシグロ)を読む

18−01 2018.1.14

1年に300本もの映画を見ていた時代と見る時間を創出出来てない現在…、1年に300冊ほどの本を読み文学に耽っていた時代と読むことの出来ない現在…、FMから流れてくる あらゆるクラシック音楽を無造作に聞いていた時代と腰痛を抱えながら生活のために忙殺されている現在、…ときどき溜息をつきながら出てくる「忙しい」という言い訳では なく、芸術的な要素を「インプット」をしないと息苦しくなってしまうときがあります。もちろん誰しもが徐々に時間がなくなる生活そしていく訳ですが、様々なジャンルに漂 いながら自分の表現方法を模索していた私は、合唱活動についての発見が遅かった分、その遅れを取り返すべく「意地になりながら」合唱活動を続けているというのが現状な のでしょうか?
それでも集中しすぎる自分の気持を紛らわせるために(もしくは漠とした不安を紛らわせるために…)、いや、芸術表現というイメージからはあまりにも逸脱した現在の合唱 活動を補完するために、近年は拙いながらも詩作というものを見つけ出しバランスを取っているつもりなのですが、基本的には常に「合唱という偏狭なジャンルにとどまるこ とは避けねばならない…」という意識が強く、例えば少しでも時間が空いたら、「喫茶店に行くか美術館に行くか」という選択肢を出してくることがある程度に、隣接する芸 術ジャンルから「インプットしたい」という意識に駆られます。本来はもっと多くの時間を「映画を見る」「小説を読む」ことで、「昨年のコンクールの〇〇合唱団は」という話題に無頓着であり、別の態度を取りたいという気持ちもあるのでしょう。それは、 例えば私と福永陽一郎との会話が「ヘルマン・ヘッセ」や「天井桟敷の人々」を通してなされていたのであって、合唱曲の分析や指揮する際の脱力については2秒しかなかった ことを思い出させてもくれます。(…その文脈の中で、「合唱指揮者になりたいんですが」というお門違いの質問を私にしにきた学生に対して「ドストエフスキー読んだ?」とはぐらかしてしまう訳ですが…。)

例によって前置きが長くなりました。
この10年ほど、小説を読む纏まった時間があれば、たいていは楽譜を読む時間に充てておりました。しかしながら気になっていた本の作者がノーベル賞を取ってしまったことで、 「しまった遅すぎた」という気持ちから平積みになっている本を躊躇なく購入しました。しかし今度は、「カズオイシグロ…、知らないなあ、でも読んでみたいですねえ」という 街頭インタビューを見るにつけ、今読んでいることで流行に乗ったと思われるのが嫌だなあ、とひねくれた気持ちが頭をもたげ、そのままページを開くことなく3か月ほどが過ぎてしまいました。
つまり、カズオイシグロの小説については、この20年来、ボルヘスやビンチョンやマルケスを読んだ次には読んでおかねばと思いながら忘れているうちに先にノーベル賞を取ってしまったということです。
で、新年を迎え、束の間の自由時間が出来た瞬間、ようやく素直な気持ちになった私は、昔からどうしても気になっていたタイトル「わたしを離さないで」をようやく読むことが出来たのでした。

寝る間を惜しむ(寝てますが)ということが自分の中でなされたのは「ザ・ロンググッドバイ」の新訳を読んで以来でした。某所に初詣に向かう電車の道中に読み始めてから、お酒を飲んで倒れ伏し、再び目覚めた深夜から夜明け近い時間帯に至るまで、一気に読み進めてしまいました。
この気持ちをなんといえば良いのでしょうか?
文芸の感想を書くことが苦手で慎重になってしまう私ですし、ソーシャルネットワークを自身の趣味とはしないのですが、今回の読書では、この気持を刻一刻誰かに伝えられたら、という 気持ちにはなりました。正確に言うと、「誰かにも読んで欲しい、そして一人では処理しきれない感情を会話することで落ち着かせたい…」とでも言うのでしょうか?

この小説を読んでいる時間というのは、感動という言葉では到底説明出来ない「心の澱のようなものが深く残る」時間でした。出色のタイトル「わたしを離さないで」が、カノンのバリエ ーションのように幾重にも響き渡ってきます。少女時代の主人公は、同名曲「わたしを離さないで」を聞きながら小さく歌い踊りますが、その歌の中に「得ることが出来ないはずの子が産まれた喜 びへの想像と、そうやって得た愛しい子がやはり自分の手を離してしまう予感」とを同時に感じていました。それを遠目に見た大人は、彼女の行動そのものに運命から逃れたい彼女の潜在的な 懇願を読み取りました。そして、彼女の親友は亡くなる前に自分たちの今の状態について「流れの早い川の中でいずれは離れていく手を必死に繋いでいる状態だ」と伝えます。交わったり交わ らなかったりする視線と通底する救いのない悲しみは、この作品のSF的なストーリーの特殊状況(ラボのような)云々や、テクノロジーと倫理の相剋…というありきたりの図式ではなく、私たち 誰しもが背負っている普遍的な宿命と運命をイメージさせてくれました。そして、その限られた世界の中でも、健気に心を尽くしながら想像をしたり、他人との感情の交換やすれ違いを生き ている主人公たちに、私たちは私たち自身の心の在り方や、気持ちの尽くし方、私達自身の思い出を重ね合わせ、思いを馳せることになるのでした。
恐ろしいほどに美しく、美しいのにぞっとするような自己嫌悪や憎悪の感情にも彩られたきめ細かな心の描写…。久しぶりの読書は、私が眠れない夜中に一人で聞いてもっと眠れなくなる曲たちのように「後悔の傷を伴う悲しい懐かしさ」と「もどかしい夢想」への旅に誘ってくれたのでした。


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