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多田先生、ありがとうございました

「なにわコラリアーズ」が、「ただたけだけコンサート」(現在vol5まで進行中)を始めたのは、ノスタルジーや蘊蓄にウェイトが行きがちだった多田作品全体に、声楽技術とオーソドックスな音楽観を持ち込みながら新鮮な音楽作りをしたかったからですが、多田先生は、「なにわコラリアーズ」の演奏をよく映画に例え、「フレーズは映画のシークエンス、細部に至るまでアングルやカット、カメラワークが感じられる…」とおっしゃっていました。多田先生は実は、若い頃映画監督を志しておられたことがあったようです。何を隠そう、私も大学時代には年に365本の映画を見ながらポストモダン芸術論を学んでいた経緯があり、共通のボキャボラリーの中で小津安二郎や溝口健二、成瀬巳喜男、山中貞雄の映画技法を音楽に結びつけながら演奏談義をさせてもらったものでした。

私が多田先生とお話できたのは、多田先生にとっての晩年ということになります。随分気に入ってくださり、頻繁に長いお電話(平均2時間)をいただきました。朝の7時ぴったりに自宅に電話が鳴ると、大抵それは多田先生でしたが(恐らく7時までは待っておられたのか…)、堰を切ったように山田耕作先生や清水修先生の話、カールベームとウィーンフィルの話、紅白歌合戦の歌手の話…(ここまでは定番)、音楽のみならず、何故かウェッジウッドからエルメスの歴史の話まで、様々なことについて教えていただきました(もちろんいくつかの話は重複するのですが…)。
そして最晩年には、私が「みなづきみのり」という筆名で作詞活動をしていることをお知りになられ、「きっと他にも書いてるのでしょう…?ひょっとすると曲を付けたい気持ちになるかもしれないから(笑)、ぜひ送ってください」とおっしゃいましたので、私は慌てて書き溜めていたいくつかの詩と、「ちょっと冒険してこんな感じはどうだろう」と思って多田先生用に新しく書き下ろした歌詞をお送りしたのでした。
多田先生からは早速電話がありましたが、「あなたの送ってくれた詩の大半は曲に出来る。新しく書かれた歌詞も非常に興味深くいずれ曲を付けたいと思うが、先にすっと書けそうな「12の月の詩」に付曲をしたい…」ということでした。そして、それが多田先生史上例を見ない全12曲の組曲「京洛の四季」となったのでした。作曲中は、詩の内容に関して問う電話を断続的にいただきましたが、驚いたことにその全てが私の家族構成や人生に関わる鋭い質問で、私が考えていたことやキーワードとして感じていたことを全て図星に見抜かれていたのでした。かねてから、「多田武彦の真骨頂は詩の選択眼である」と主張してきた立場からすると、そこに拙作が入ってしまったことについてはお恥ずかしい限りですが、多田先生は次のように語ってくださいました。
「…市井の中に一人の詩人がいて、多くの人々と同様に、肩を怒らすこともなく、春夏秋冬の移ろいや花鳥風月の美しさを背景に、自らの追憶や喜怒哀楽に向かいながらも、常に感謝の心を抱きながら作詩されたと思われる十二ヶ月の詩があった…」
恐らく様々なやり取りから、多田先生が作曲に際して最も大切にされていたのは、その「春夏秋冬」「花鳥風月」「喜怒哀楽」…そして、型としての「起承転結」であったものと思われます。つまり、品性を保った情緒性と、様式感を伴った美意識が多田作品の中心ということだと思うのです。

少しずつ身体が悪くなられたことは、電話の時間が徐々に短くなってきたことから感じられました。最後の電話は2017年の11月下旬。演奏会のメッセージをお願いする電話をさしあげた時、声のトーンから私は密かに容態のことを案じたのですが、いつものように穏やかに「本当にありがとう、いつも良くしてもらって」とおっしゃられたことが思い出されます。一度舞台で見た美しい角度のお辞儀姿や、ご自身の死に際しても年末年始に迷惑をかけてはならないから、と隠されていたことをとっても、謙虚で筋道の通った生き方、お人柄が偲ばれます。
覚悟は出来ていましたので私は悲しくはありません。作曲家の命はもちろん作品の中にあり、音楽の中に刻印され永遠に生き続けているものと信じているからです。それよりも、残された演奏者としては、どんな作品でも作品に注がれた作曲家の生命に触れ、対峙し、それを客席に届ける活動をしっかり続けなければならないと思っています。

P.s
…あ、多田先生、「いつか作ってみたいとおっしゃっていた組曲の歌詞」は二人だけの秘密のようなことになりました。どうなりますかね?…、ぜひゆっくり時間をかけて作曲してください。

2018年『ハーモニー 春号』より
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