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追悼・多田武彦先生

【多田先生との出会い】

男声合唱を愛する多くの方が多田先生の作品を愛し、いろんな形でお付き合いをされていたと思いますが、私が多田先生と直接お話出来たのは、今から15年ほど前に「男声合唱を巡るシンポジウム」で一緒にパネラーを務めさせてもらったときでした。シンポジウム終了後、私は恐る恐る「なにわコラリアーズ」による多田作品の演奏CDを差し上げました(北原白秋の詩に付けられた曲の演奏集)。すでにコンクール全国大会で金賞を取り始めていた頃でしたから、多田先生は「なにわコラリアーズ」の名前も私の名前も知っておられましたが、演奏を聴くのは初めてだということでした。その時は、緊張もあってほとんど社交辞令を交わしただけだったのですが、驚いたことに、翌日さっそく私の自宅に電話がかかってきたのでした。「CDを聞いてびっくりした。<これぞ私の思い描いた演奏>なので、親しい友人に配るためにすぐそのCDを10枚買った…」ということでした。誉め言葉の連続で、私は舞い上がるどころか、ちょっとどう反応して良いのかと心配してしまうほどでした。
以後、定期的に電話がかかってきました。一度の電話は早く終わって二時間コース。そこでは、山田耕作や北原白秋の話から、カールベームとウィーンフィルの話、合唱の話はもちろんですが、銀行時代の思い出に加え、何故かウェッジウッドやエルメスの歴史の話までてんこ盛りでした。
中でも多田先生は私の演奏をよく映画の手法に例えられていました。「伊東さんは映画が好きなのではないか…?」と聞かれたので、「実は大学のときに年に365本の映画を見ながら、映画芸術論を勉強していました…」と話すと、多田先生はそれを探り当てたことにたいそう満足されていました。多田先生は映画監督を志された時期があったということで、「なにわコラリアーズ」の演奏では、フレーズや段落がシーンとシークエンスを形成しており、細部にもアングルやカット、カメラワークの工夫を感じるとのことでした。そして、私にはいったいどのように練習してどのように活動しているのか、あのソロをしたのは誰でこのソロをしたのは誰で、そもそも伊東さんはどのように育ってきて親御さんはどんな方で、何が好きか、嫌いか…というようなプライベートな内容まで、本当によく電話で聞いてこられ、お話をさせてもらいました。
「なにわコラリアーズ」で全国を回りながら多田作品だけを集めた「ただたけだけコンサート(現在vol5まで進行中)」を始めるに当たって了解を求めると、大変喜んでいただきました。健康上の問題もあり、直接来ていただくことはありませんでしたが、CDになったものは全てご友人のために複数購入していただいていたようで、演奏については全て褒めていただけました。ありがたい限りです。

【詩について】

そんな多田先生が、どこから聞きつけたか私が詩を書いていることをご存じで、電話をいただきました。「伊東さんが(みなづきみのり)という筆名で詩を書いていることは知っている。何か曲を書いてみたいという気持ちになるかもしれないから(笑)、作っている詩をともかく送って見せてもらえないか…、もしくは、ほかの作曲家が作った譜面があれば教えて欲しい…」ということでしたので、慌てて書き溜めていた詩からいくつかを抜粋し、またほかの作曲家(まだ少数でした)に既に作っていただいていた楽譜とともにお送りしました。もちろん、さっそく電話をいただき、「伊東さんが書く詩で(花鳥風月)が入っているものは、全てすぐに付曲出来る」という話をいただきました。そして、またともかく新しい詩や歌詞を書いたらすぐに送るようにとも言われました。実はその時、私はシューベルトの「美しき水車小屋の娘」の訳詞(超訳)に没頭していたのですが、どうしても上手くいかないので、まるで勉強中に急に小説や漫画が読みたくなる受験生のように、多田先生の言葉に誘われるままいくつかの意図を持たせた歌詞を一気に(5曲くらいの組曲になることを想定し)書いて送ったのでした。

【京洛の四季】

想定通りに電話がかかってきました。詳細は割愛しますが、多田先生からの電話の内容は、新しく送ってくれた歌詞は非常に興味深く、いずれ曲を付けたいと思う。ただ、それは私にとっても新しい一つの冒険になるので、ぜひ、その前にあなたの詩について慣れたいということもあり、今のスタイルですっと書けそうなものに曲を書かせてほしい。「12の月の詩」というのを気に入った。まずはこれに付曲をしたい…、ということでした。
そして、その後の数か月間は断続的に詩に関しての電話がかかってくることになり、根ほり葉ほり聞かれました。詩の中に直接的に指し示す言葉はどこにもないのに「これはお父さんのイメージでしょうか、これはお母さんのイメージですか」と聞かれたりもしました。私のほうも「これは、近所のおじさんのイメージ、これは特段の思い出ではなく自分の夢想、これは自分自身の感じ…」と、聞かれるままに、もろもろの話を引き出してしまいましたが、本当に驚いたのはだいたい私が考えていたことや感じていたこと、キーワードを全て図星に見抜かれていることでした。さすが、詩や言葉を豊かに読み解く優れた感性の持ち主であると思い驚きました。全てお見通しなのでした。そして、その結果、ついに多田武彦史上例を見ない全12曲の「京洛の四季」が誕生するのです。「12の月の詩」は私も気に入っていて送ったのですが、歌にされる想定がなく、「先生、ハンバーガーとか出てきますけど、本当に大丈夫ですか、私は歌になると思って作ってないので、多田先生の歌に相応しい体裁で書き直しますけど、良いですか?ハンバーガーですよ」と何度も聞き直したことが思い出されます。
多田先生は「そんなことは何の問題もない、ちなみにこれは、場所としては具体的にどこのイメージ?」「大田神社からの帰りのイメージです、幼い頃五月の思い出と、その後の自分と自分の夢が混在しています」ポイントを突いて質問をされるので、私としては、はぐらかしたことしかない自作の詩について、全て思っていたことや考えていたことを自白させられていくのでした。そしてまた多田先生は京都にゆかりのある方ですので、そのようなローカルな話題も含めて会話が成り立っていくのでした。
「京洛の四季」は「ただたけだけコンサートVol4」で「なにわコラリアーズ」で初演されました。私は、歌になるなどとは思いもせず、メモのように書きなぐった12の月の詩です。
多田先生は次のように語ってくださいました。
「…市井の中に一人の詩人がいて、多くの人々と同様に、肩を怒らすこともなく、春夏秋冬の移ろいや花鳥風月の美しさを背景に、自らの追憶や喜怒哀楽に向かいながらも、常に感謝の心を抱きながら作詩されたと思われる十二ヶ月の詩があった…」
恐らく様々なやり取りから、多田先生が作曲に際して最も大切にされていたのは、その「春夏秋冬」「花鳥風月」「喜怒哀楽」であったものと思われます。つまり、品性を保った情緒性と、様式感を伴った美意識が多田作品の中心ということだと思うのです。

【ただたけだけコンサートvol5】

その後、特に2017年以後、少しずつ身体が悪くなられたことは、電話の時間が徐々に短くなってきたことから感じられました。最後の電話は2017年の11月下旬。私のほうから熊本で行なう「ただたけだけコンサートvol5」へのメッセージをお願いする電話をさしあげたところ、多田先生はその後、数度に渡って私に曲目の確認や場所の確認等で電話をされました。一生懸命メッセージを書こうとされていたのだと思います。電話口の様子から私は密かに容態のことを案じてはおりましたが、いつものように丁寧に「本当にありがとう、いつも良くしてもらって」とおっしゃっておられたことが思い出されます。

予想はしていました。覚悟もしていました。そして作曲家は命を削って曲の中に生きる人たちだと信じていますので、私は悲しくはありません。また、私は「多田作品をノスタルジーの対象」にはしたくありませんし、演奏に際して格別の思い入れのようなものを排除し、楽曲としてオーソドックスに向き合ってきたつもりです。しかし、自分の人生を振り返ってみると、自分は人生の一番輝けるシーン(同志社グリークラブの学生指揮者であった時)で、多田武彦の「中勘助の詩から」を選択した人間であったことに気付きます。その後の合唱指揮者としての音楽上の研鑽とは別の次元で、もっと根本の部分で、多田作品に人生の扉を開いてもらったことに気付きます。
すべての感謝の言葉を重ね、ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

P.s
ただ、一つだけ天国の多田先生に問い合わせたいことがあります。
「多田先生が将来書いてやろうと思っておられた組曲について、どうなりますでしょうか?」
この存在を知っているのは、私と多田先生だけということになりました。

2018年 じゃむか通信第79号より
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