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 言葉から歌へ〜全日本ワークショップ

14−5 2014.12.18

私の作詩活動については、2007年に「淀川混声合唱団」のメンバーの 結婚式で北川昇さんから「お祝いの新曲を発表するために歌詞が欲しい」 と言われたことに端を発します。それまでには一つの詩を発表することも ありませんでしたので、それから数年間の間で軽く100を超える合唱曲 が誕生していることになります。北川さんが何故私に作詞をしてほしいと 言われたのかが分かりませんが、二つ返事で引き受けた私は私で、「何か が書ける気(書きたい気持ち)」がしていたということでしょうか。
後日、日下部吉彦先生に私が作詞をしていることを公表すると、「へえ、 驚いたけど、なるほどねえ、分かる、という感じだよ」と言われました。 私の大学時代の同級生等からも同様の感想をもらうことがあります。
よく考えてみると、私は同志社グリークラブの学生指揮者をする傍らで ポストモダン芸術論を専攻しており、ゼミの仲間と文芸関係の同人誌を作 っていました。そこでの私の担当は私の映画論(ロラン・バルト、ジャ ン・コクトー、蓮実重彦…)でした。実は後程茶道方面に職を求めた友人 が小説を書き(小説家と呼ばれる)、現在書家になっている友人が詩を書 いており(書道家と呼ばれる)、なぜか映画評論だけを書いている私が 「詩人を呼ばれていた」ことを思い出します。雰囲気や態度の問題でしょうか。
ちなみにこの三人は毎週金曜日の夜(私はグリーの練習後)に、原谷の広 い部屋に下宿していた書家のアトリエに集まり、私が見つけてきた映画を 観たり、一晩中バッハの無伴奏チェロ組曲を聴き比べたり、小説家が大江 健三郎について熱く語るのを聞いたりしており、私の芸術や哲学に関する 意識を深化させるきっかけにもなったのでした。学生指揮者にはいつも、 合唱聞くくらいならクラシック音楽を聴くか、演劇見るか、歌舞伎見るか、 絵画見るか、小説を読め、と言いますし、実際に表現と向き合うというこ とは、ジャンルが越境したときにより普遍的な問題として腑に落ちていく もののみとも思うのです。当時の私たちの問題は、バタイユからマラルメ、 ゴダール、三島由紀夫、ベートーヴェンの弦楽四重奏に至るまで多岐に わたっていたものです。
脱線しましたが、みなづきみのりに戻ります。→やさしさの扉・さびしさの扉

もとより、どちらかというと朗読以外の国語の授業が苦手だったのですが、 要するにそれは国家の指導要領が悪く、私の中には言葉と深く関わってい た父親からの詩の種が埋め込まれていたように思います。
父親は万葉集が好きで、アララギ派に通じる短歌の会の会員でもありました。 歌集を残し、特殊な歌題でもあったので、「昭和万葉集」や「折々の歌」 にも取り上げられていますが、短歌のみならず、私は幼い頃から父親と一 緒に入る風呂の中で島崎藤村や佐藤春夫の詩を暗唱させられていたことが ありました。
そのようなことを考えると、ようやく言葉を使って何かを表せるようにな った自作を見てもらう機会がなかったことが少し残念ではありますが、き っと共存はなかったので、そのようなものでしょう。

さて、今年の全日本合唱連盟のワークショップ(和歌山)では、合唱指揮 者としてだけでなく、ようやく同一人物であることを肯定するきっかけと して、作詞者としての立場でも講師を引き受けることになりました。松本 望さんとのカップリングで講習をさせていただきましたが、言葉はいかに 音楽となるのか、作曲家は言葉の中に音楽の要素を見つけどのような光を 与えているのか、そして歌い手はそれをどのように汲み取り表現するの か、ということをテーマにした講習会を持ちました。

これは私にとっての大きな興味であり課題でもあります。
つまり、言葉→音楽(うた)→演奏→聞き手という循環の中で、どのよう な共感が生まれどのように表現を得ようとするのか、ということであり、 このことは合唱指揮者として最も重要な課題とも言えるでしょう。講習 の準備中に、人前でしゃべれるものが少しだけ見つかったような気がしま すので、さらに興味を持って追及していきたいと思っています。

P.s
講習は「アポロンの竪琴」という私のテキストに付けられた松本望先生 の曲と千原英喜先生の曲を歌い比べるというもので、非常にユニークな ものになったかと思います。(→アポロンの竪琴 私の好きなピアニストでもありま松本望さんに弾いてもらった「千原英 喜先生のアポロンの竪琴」は何とも言えない素晴らしいコラボレーション でした。

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