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「やさしさの扉・さびしさの扉」

淀川混声合唱団代第26回演奏会より

三人の天使 アンドレイ、ヤスジロー、フランソワ
一人の詩人 ジャン
一人の小説家 マルセル
そして一人の哲学者 ロラン・バルトー

不慮の事故で亡くなったというその哲学者の遺著のページを何気なく 捲っていたときのこと、…次第に部屋に差し込んできた木漏れ日の 感触を私は忘れることはない。それは微笑みとも言えるものだったろうか。
何かが不在の午後、唐突にある予感と思い出が立ち込め、世界の仕組 みが分かったような錯覚に陥った。文字通りその予感は、予感の思い 出として長い年月の後、…そう、ある六月の晴れ間に蘇ることになる のだが…。

夏の午睡の後など、まるで時計の針が全く進んでいないかのような不 思議な感覚に見舞われたりすることはないだろうか。同じように続く 気怠さの中でふと根拠のない不安に駆られたりすることはないだろう か。記憶は、適度な捏造と思い違いを飲み込みながら、本当らしさと まがまがしさを判別することもなく、どこにも辿りつかないメリーゴ ーランドのように巡る。唐突に蘇る瞬間を待ちながら。ありもしない 過去を夢のようにすり替えながら。

ある時、ふと私に姉がいたような気がした。
しかし、私には姉などいない。
それは恐らく父親が繰り返し聞かせた話の端々に出てきた亡くなった 姉のことではなかったのか。
またある時、私は空を飛ぶ夢を見た。
これでやっと自分も人並みに空が飛べるようになったと思った。やっと 永久歯が生えてきたという感覚で。しかし、それは夢でなく、本当は私 たちは皆空を飛んでいるのではないか。忘れているだけで。世界を開く 扉は実はすぐそこにあったのだ…と言わんばかりのことに、私たちは気 づいてないだけなのではないか。
夢と思い出は混ざり合う。
人は人の記憶の中に生き、繰り返し蘇る。

私たちの生を形作っているものは、手に触れられる事実ばかりではなく、 夢や思い出や他人から聞いた話や、読んだ物語の中身までもが混ざり合 い、その曖昧性の中に炙り出されてくるものなのではないだろうか。

夢や錯覚や聞いた物語が、私の人生の中に忍び込んでいる。そう、モー パッサンやアーウィン・ショーの小さな一節までもが・・・。そして、どこ かの作曲家が作った曲によって、私には別々に見えていたことが、時間 をかけて緩やかに繋がっていたことに気付くことになる。

天使は去っていく
「やっとわかった?」
とでも言いたげな笑顔を残し・・・

天使はやがて
かつて人だったものとともに・・・
かつてやさしさとさびしさのあいだを彷徨っていた魂とともに・・・
微笑みとなって
棚引く雲に近づいていくのだ

ある晴れた六月のことだった
天使は旅立った
「さようなら」
と、手を振りながら

            
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